Tom Ito - 縄文から学ぼう -
写真は一部寄稿者のものではありません。

縄文住居
『縄文から学ぼう』 
『ページ7 氷川神社と縄文 ~ 古層の神を訪ねて その3』
寄稿 : Mr. Tom Ito
『ページ1 縄文 三内丸山遺跡』 『ページ2 縄文と翡翠と三種の神器』 『ページ3 韓国~日本との繋がりを訪ねて』
『ページ4 縄文の勾玉を追って〜前方後方墳』 『ページ5 縄文と古層の神を訪ねて その1』 『ページ6 縄文と古層の神を訪ねて その2』


神社と縄文 〜古層の神・祭祀を訪ねて

日本文化のベースは縄文時代に培われ、渡来の文化が混じり合い、武士社会が作った文化など、幾層にも重なった上に成り立っています。 今回は富士山を祀る浅間神社を取り上げ、古層とのつながりを考察します。
初めに、筆者が使用している「神」の意味を明確にしたいと思います。一神教における唯一の神、"God"の意味ではなく、名前に付ける「様」よりも少し畏まった意味の神から自然界の絶対的な脅威に畏敬の念を感じる神、そして広範囲に存在する神として解釈していただきたいと思います。 16世紀に初めてキリスト教が日本に紹介された際には、「ゴット」を「大日」と訳して使用していたそうですが、誤解を招いたため、百済の寺と同じ構造の法隆寺その後「ゼウス」に変更されました。そして明治時代に再びキリスト教が紹介された際には、中国語の聖書に記載されていた「神」という言葉がそのまま「神」として使用されるようになりました。しかし、「神」という表現は宗教や文化によって意味が異なり、絶対的に唯一の神なのか、何かを神格化したものなのか、判断が難しい場合があります。

現在の神社の形、例えば御祭神、建築形式、神社の格などは、政治的な意図を持って作られたものです。これは、海外から持ち込まれた仏教に対し、日本独自の宗教の必要性から生まれたものです。浅間神社はその一例です。 縄文時代に作られた祭祀場は、弥生時代やその後の時代でも同じ場所が祭祀の場所として継続して使われていました。縄文時代初期の富士山が見える集合部落 神社も自然発生的に神社形態になったと思われがちですが、7世紀後半に政治的な目的で人為的に作られました。ただし、その古層には縄文時代からの自然信仰の形跡も残っています。

1 縄文からの祭祀・神(霊・魂)

人間には生きる上で心の支えが必要です。現代では出産で亡くなる女性は極めて少ないですが、縄文時代では出産は死を覚悟しなければならないほど危険でした。そのため、無事に出産できるよう祈りを捧げるために、土偶と呼ばれる人形を作り、生贄として壊し、バラバラにして地中に埋める儀式を行っていました。 仏教寺と神社建築の比較 生贄の儀式は世界中に存在し、古代中南米の生贄は多くの命を奪う壮絶で、他の文化から見ると恐ろしい野蛮な儀式でした。しかし、縄文文化が人間を生贄とする儀式を行っていなかったかどうかは不明です。

縄文時代の人々は、生命の継続を願い、その願いを反映する遺物が縄文遺跡から見つかっています。女性を表す土偶や男性を表す石棒が多数発掘されています。現在では、石棒は子宝の神として崇められています。また、巨石や三角錐形の山、纏向遺跡の想像風景 勾玉なども信仰の対象であり、身を守るための装飾品として、日本や朝鮮半島の支配者階級に愛用されました。

富士山は、最近の10万年間で急速に成長し、現在の姿を形成したのは1万年前の火山活動によるものです。縄文時代後期の約3000年前には4回の噴火を起こし、平安時代の800年から1083年にかけては10回の噴火を経験しています。 富士山の周りには豊富な湧水があり、古代から集落が建設されていました。 富士山の麓には1万1千年前の大鹿窪遺跡、4千年前の千居遺跡、牛石遺跡などがあります。これらの遺跡では、11の竪穴式住居に約50人が住んでおり、富士山に向かい合うようにU字型に配置されています。また、富士山の方向に集石遺構が作られていました。