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2012年5月16日
 


      太宰治の作品『思い出』と『津軽』とは、内容的につながりが深い。特に前者を後者への導入部分として読むと、『津軽』の中に現れる、いわゆる「太宰の世界」が理解し易い し、また前者の幾つかの場面が、後者の重要な回想シーンとなって再登場してくる。  そんな観点から、二つの作品に出てくる青森県の主な地名、それも「津軽地方」と呼ばれるところにある町や村を、何度かにわたって歩いてみた。  『津軽』―太宰が歩き、作品に仕上げたとき(一九四四年)から七十年近く経ったいま (二〇一一年)でも、読み返す度に、どんな個所に実体験が述べられ、どんな部分に虚構が仕掛けられているのかと、興味をそそられる。本編五章の結び直前の一節、「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。」をおおかたは信じ、一割ほどの疑念をもちながら歩き回った記録の一部である。

 青森(一) ― 文芸のこみち
 「さらば読者よ/命あらばまた他日/元気で行こう/絶望するな/では失敬」『津軽』本編五章(終章)結びの言葉。  太宰の「津軽」の旅は、太平洋戦争の終盤に近い一九四四年五月のなかば、青森駅に朝八時に着いたところから始まる。彼はその前夜「乞食のような姿で」上野発十七時三十分の夜行列車に乗ったのだった。  旅の「出発」の地に、作品の「結び」のことばの碑、という面白いコントラストが、青森市の「文芸のこみち」で見られる。  「文芸のこみち」は青森駅の東方二~三キロメートルのところ、堤川を渡り栄町一丁目と花園一丁目の間、旧東北本線の線路跡を遊歩道として、その両側に、青森県ゆかりの文化人たちを記念した碑を建てている。北畠八穂、棟方志功、淡谷のり子、寺山修司等十四人、太宰もその一人に加えられている。

 青森(二) ― 合浦(がっぽ)公園
 「校舎は、まちの端れにあって、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えてきて」(『思い出』二章)  一九二三(大十二)年、太宰は青森中学校に入学し、郷里の金木を出て青森市内に下宿した。  青森駅から国道四号線を東へバスで十分、合浦公園という停留所から歩いて三~四分、公園の西端の野球場や体育館に挟まれた一角に「旧制青森中学校の校門跡」という記念碑があった。碑の表には校歌「無限の徽章中字形・・・」が、裏には「ここに我等の母校ありき・・・」という文章が刻まれていた。  合浦公園といえば、たしか・・・と旧青中記念碑から松林のなかを海際へ四、五分歩いたら、石川啄木の歌碑が見つかった。  「船に酔ひてやさしくなれる/いもうとの眼見ゆ/津軽の海を思へば」(歌集『一握の砂』―わすれがたき人々)、渋民から函館へ移り住む途中の歌である。

 蟹田 ― 蟹田駅ホームと観瀾山
  「蟹田ってのは風の町だね」(『津軽』本編 二 蟹田)。  蟹田駅の二・三番線ホームに立っている碑文である。太宰は青森からバスで親友N君こと中村貞次郎氏(青森中学同級生)のいる蟹田に向かって外ケ浜の東岸を進んだ。  駅から徒歩で十五分ばかり、海際までせり出した小山が観瀾山、太宰の言葉を借りると 「観瀾山の桜は、いまが最盛期らしい。静かに淡く咲いている。」津軽北端に位置する蟹田辺りでは、五月の中旬でも桜が盛りであったのだろうか。  陸奥湾を眼下に見下ろす展望台には、「あれは/人を喜ばせるのが/何よりも/好きであった!/ 正義と微笑より 佐藤春夫」の碑があった。その説明文によれば、井伏鱒二が文を選び、佐藤春夫が筆をとったとなっていた。  観瀾山への往復に時間がかかり、Nさんのお宅の見学はスキップした。

 龍飛(たっぴ)(一)ー 本州の北の果て
 「ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。読者が北に向って歩いてゐる時その道をどこまでもさかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ケ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」(本編 三 外ケ浜)。  これが龍飛集落の入口に立っている碑。長い文章だが、蟹田の翌日「三厩(みまや)で一泊して、それからさらに本州の北端、龍飛岬まで行った」太宰にとっては実感であったろうと思われる。  今なら三厩(みうまや・みんまや)から龍飛まで町営バスで五十分ほどの道のりを、太宰一行はおよそ半日歩き続けた様子である。復路も同じ。  碑の二百メートルぐらい北側に、太宰たちが泊まった旧奥谷旅館が「龍飛館」の名で観光案内所になっており、二階「太宰の間」ほか館内を見せてもらえる。

 龍飛(二) ー 階段国道
 「鶏小屋」と表現された龍飛の村落、家並みは普通の人家であるが、路は狭い路地、向かい合った家の屋根が殆どぶつかるように覆いかぶさる。これがれっきとした国道三三九 号で、家並みを抜けたところから、龍飛岬の南東斜面を幅一・五~二メートル、段差十五センチ程の階段で昇り降りする珍しい国道だった。階段数の公表三六二段、私の実測はそれより一段多い三六三段。

 龍飛(三) ー 燈台下で「津軽海峡~冬~景~色~」
 階段国道を昇りきったところ、逆に言えば階段国道の降り口は、岬の燈台真下、津軽海峡の向こうに北海道を遠く望む広場である。そこに立つ一基の歌謡碑、操作ボタンを押すと、「あ~、あ~、津軽海峡~冬~景~色~」の詞と旋律が流れ出す。青い真夏の海を眼前にして「・・・冬景色・・・」を聞いていると、たしかに本州北のはずれだな、いい眺めだ、いい曲だ、という思いが迫ってきた(二〇一〇年七月のある午前)。  近くには「青函トンネル記念館」があり、長年月にわたったトンネル完成の技術や歴史が学べるようになっている。

 中里 ー 小泊(こどまり)行きのバス
 「『修っちゃあ』と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑いながら立っている・・・ 『久し振りだのう、どこへ』『いや、小泊だ』私はもう、早くたけに逢いたくて・・・」 (『津軽』本編 五 西海岸)。  中里駅前の停留所で知人の女性とこういう会話のあと、太宰は小泊行きのバスに乗り込む。「バスは、かなり込んでいた。私は小泊まで約二時間立ったままであった。」  現在小泊へ行くのには、五所川原からの直通バスを利用するのが便利である。路線は二通りあり、一つは金木芦野公園、中里を経て十三湖の東岸を走るもの。もう一つは岩木川の西側を行き十三湖の西岸を抜けるもの。どちらも所要時間はそんなに違わない。  私(佐々木)は、太宰の道順を追い、津軽鉄道終点の中里から(五所川原始発の)バスに乗った。あまり乗客はおらず、一時間十分で小泊に到着した。さあ、小泊だ!

 小泊(一) ― 再会の像
 「たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。(中略)肩に波を打たせて深い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私はその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。」(『津軽』本編 五 西海岸)  小泊のバス終点から徒歩で約十分、小学校の校庭の横の岡の上、「再会公園」という名の広場に駆け上がる。たけさんと太宰の二人が並んで座った姿の「小説『津軽』の像」が あり、その隣の碑に右の文が刻まれている。像と碑を確認したあと傍らの「小説『津軽』の像記念館」に入り、「タケと太宰の出会いと生涯」に始まるかなり多くの展示品を観ることになる。  校庭に入ると二番目の碑がある。「一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。『修治だ』私は笑って帽子をとった。『あらあ』それだけだった。」  小学校と再会の像から少し昇り坂を七~八分、龍神様の森への入口に三番目の碑が立っていた。「小泊までたずねて来てくれたかと思うとありがたいのだか、うれしいのだか、 そんな事はどうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ。」 (小泊の町には、この三基のほかにさらに六基か七基の『津軽』碑があるが、それは煩多になるので割愛。)  こうして二人は小学校の運動会の日に再会し、言葉を交わし、別れた。  しかし、小説『津軽』のクライマックスの場面、真相はどうだったのか。津島美智子著『回想の太宰治』の「アヤメの帯―たけさんのこと」や、長部日出雄による『桜桃のキリスト』の二章「銃後の覚悟」そのほかの資料を読むと、小説の記述とはかなり異なった場景が現れてくる。小説の結び直前の一節「私は虚飾を行わなかった」―もしそうだとすれば、また「読者をだましはしなかった」―そのままに受け止めれば、運動会の掛小屋の中や龍神様の森での二人の出会いと語らいは、太宰の心象風景だったのでないか。

 小泊(三) ― 越野金物店
 「『ごめんください、ごめんください』『はい』と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。」さっきは無人だった越野金物店を、太宰が再び訪ねて たまたま帰宅していた娘さんと顔を合わせた場面。  今でも「越野金物店」の建物はある。しかし、だいぶ前に人手に渡り、越野家とは関係がなくなってしまったと、斜め向かいのたばこ店の女主人から教わった。この方は、越野家にあった太宰ゆかりの品物を幾つか預かっていて、その展示がてら私設の『津軽』案内所を営んでいる。そして「金物店」(たけさんの住まい)を訪ねてくる人を見かけると、 店のなかから出てきて、声をかけ、必要な説明をして下さる、奇特な方であった。

 芦野公園 ― 恍惚と不安
 「撰ばれてあることの恍惚と不安と 二つわれにあり」(ヴェルレエヌ)  小泊からの復路のバスは、芦野公園前を通る。『津軽』で、「金木の町長が東京からの 帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ・・・」と紹介されている所である。  公園の中央部、池のほとりに、マントを着た太宰の全身像が見える。その顔の向いている方向にある碑、白い台石に黒い碑面、上部には金色のフェニックスが据え付けられ、底部には、太宰の好んだ「・・・恍惚と不安・・・」の文章が彫られている。  ここから、金木小学校、思い出の広場、南台寺(津島家の菩提寺)雲祥寺(地獄閻魔 図)、と道なりにゆかりの場所を辿って歩いておよそ二十分、太宰の生家「斜陽館」に達するという次第である。

 深浦 ― 秋田屋旅館
 「・・・私は行きあたりばったりの宿屋へはいり、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。」(本編 五 西海岸)  夜食に出た二本の酒では足りず、外の料亭へ酒を飲みに出掛けた。けれども却って気分を害して宿へ帰ってきた。この宿屋の名は秋田屋、宿の主人は太宰の兄英治の中学校の同級生であった。  太宰は翌朝主人から「ゆうべは失礼しました。さあ、お酒をめし上れ・・・」と(多分配給の量を超えた)余分の酒を朝食に付けてもらい、幾らか気分を直して、鯵ケ沢へ戻って行った。  私(佐々木)は、二〇〇四年十一月、高校バスケットボール部の同期メンバー五人が揃って白神山地などを旅行した際、この深浦に泊まった。その時、宿舎のすぐそばに旧秋田屋があって、「ふかうら文学館」として再生公開されていることを知った。次の日、仲間にことわって別行動をとり、「文学館」を見学した。それが実は、金木・五所川原・弘前しか知らなかった私の、「津軽」探訪の旅の始まりとなったという因縁がある。  「ふかうら文学館」では、旧旅館のたたずまいを残したまま、太宰の泊まった部屋、そして食べた料理(推測再現)、太宰が知人に宛てて出した数枚の葉書、青森県下の太宰文学碑一覧、関連図書などを展示していた。

 弘前 ― 旧弘前高校
弘前大学が創立六十周年記念行事の一つとして、そのキャンパス内に太宰の文学碑を建てたというニュースを聞いた。同市の郷土文学館で開催中の「太宰治生誕一〇〇年展」を 見学したついでにその碑を尋ねて行った(二〇〇九年十一月)。  弘前大学の前身は旧制官立弘前高等学校、太宰が青森中学を四年で終了後に、一九二七(昭和二)年から三年間学んだところ。当時の太宰の下宿、旧藤田家(現在は「太宰まなびの家」として公開されている)から徒歩十分で弘大東門に着く。  キャンパスに入ったものの、案内図は見当たらず、碑がどこにあるのか、うろうろ時間浪費。学生たち、事務局の窓口、生協売店のレジなどに問うこと三回、四回。結局要領を 得ない答えばかり。“太宰って何?”という反応―(「誰」ではなく、「モノ」の扱い)―もしかしたら、太宰治という旧弘高出身の作家は、ここにいる人たちとは無縁の存在、日常接触のないモノなのかも知れない、こんな寂しい思いで諦めて引き返そうとした。  と、さきほど入ってきた東門の手前で左折の矢印は「旧弘高外人教師館」、折角来たんだから、何か一つ昔のものを見てもよかろうと向って行くと、教師館の横の草地の中に小さな碑があった。おう、太宰の碑、それも『津軽』の碑であった。  「私にはまた別の専門科目があるのだ。/世人は仮にその科目を愛と呼んでゐる。/人と人の心の触れ合ひを研究する科目である。/私はこのたびの旅行に於いて主としてこの一科目を追及した。 太宰治 『津軽』より」(序篇 終わりの部分)。

 (注)碑文を除く引用文は、『晩年』所載の『思い出』及び『津軽』(いずれも新潮文庫旧版)に拠る。また、地名は原則として、平成大合併前の古い呼び方を使っている。