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「語りあう仲間たち」 山と旅と戦後の文学 第七号 2008年11月
『この橋何歩、一、二、三、四、・・・・・・』 ページ 1
寄稿 : 佐々木 行(ささき すすむ)

1.日本橋

『―まえがきー』

いつのまにか、橋の上を歩くときは歩数をかぞえるようになっていました。やがて、歩数をかぞえるために、わざわざ橋を訪ねて渡るようにもなりました。

1.旧東海道

“神田の八丁堀に独り住みの弥次郎兵衛と北八が、花のお江戸を立ち出る”のは 日本橋から。欄干の龍の姿を見ながら渡りおえると七十歩。旧東海道、弥次北が通って行った川と橋、どんなところでどのくらいの長さなのか、歩いて渡る。  多摩川の六郷の渡し、今は 六郷橋(第一京浜、国道十五号)610歩、約3キロ上流の 多摩川大橋(第二京浜、国道一号)は590歩。ここからは神奈川県、平塚の手前、相模川の 馬入橋720歩。小田原、 酒匂橋(国一)510歩、少し上手の新しい 小田原大橋は520歩。

 静岡県に入る。 富士川橋520歩、橋を過ぎ山寄りの旧東海道を行けば、「江戸方吉原の 宿、京都方蒲原の宿」と書かれた岩淵の一里塚。続いて旧駿府の町の西はずれ、弥勒の 安倍川橋は610歩、これより下流五〇〇メートル国道一号の 駿河大橋は740歩。  弥次北が“蓮台にのりしはけつく地獄にて/おりたところはほんの極楽”と振り返った街道一の難所、島田から金谷への大井川の川越。現在は 大井川橋を1,360歩で渡ることとなる。この川越の地点から河口に向かい40―50分歩いたところにあるのが蓬莱橋。 「世界一長い木造人道の 賃取橋、長さ八九七メートル」という案内板を読み1,170歩。  天竜川、古くからある 天竜川橋は1,160歩。橋の幅せまく、人道がないうえに、車の通行量多いため、歩くこと自体が難しく、ものすごく怖い。その半丁北側を並行する 新天竜川橋はスイスイ歩けて1,150歩。

川を越した西側は、“江戸へも六十里、京都へも六十里、ふりわけの所なれば、中の町といへるよし”とある旧中ノ町村(現在は浜松市東区中野町)。袋井の宿が「東海道のど真ん中」と云われているが、あれは宿場の数の話、 距離から行けばここがほんとのど真ん中、だから「中ノ町」というんですとは地元の人のすこし悔しげな自慢話。  隣、愛知県、岡崎の矢作(やはぎ)川、 矢作橋340歩。その昔日吉丸が蜂須賀小六親分と出会ったのがこの橋の上。ということで橋の西詰先に 「出会之像」が立っている。しかし当初ここに土橋が架けられたのは秀吉の歿後、従ってこの逸話はどう考えても立派な作り話となるそうだ。

 旧東海道は、名古屋の(熱田)宮から、“七里のわたし浪ゆたかにして・・・桑名めいぶつ焼蛤に酒くみかはして・・・”と海上を舟で渡った。現在は国道一号が弥富―長島―桑名と走りぬける。木曽川の 尾張大橋1,120歩、それから歩いて三十分、長良川と揖斐川 (いびがわ)を連続して跨ぐ 伊勢大橋は1,380歩。

 亀山―土山―草津から琵琶湖畔に出た旧東海道は、 瀬田唐橋320歩を渡り、大津から京都に至る。正式には府道一四三号、同三七号と続く街道は三条大橋で五十三次の上がりとなる。鴨川に架かる 三条大橋は95歩。橋の東詰には、御所に向かって平伏している高山彦九郎像(俗称土下座像)、西詰には、長旅を終えてやれやれと一服している弥次北の像が見える。  実はこの二人、お伊勢参りの後、 “あしびきのやまと路、あおによし奈良街道を経て山城の宇治にかかり”伏見から舟で大阪へ下るつもりであった。ところが、“淀川の夜ふね”騒ぎで京都に逆行し、“清水坂、被(かつぎ)をきたる女二、三人づれ”  “五条新地、おやま屋の吉弥と金五”と災難が続き、やっとの思いで三条へたどりついたという次第。

 日本橋から三条大橋まで足で渡った二十ほどの橋。単純合計で13,070歩、渡って戻った往復分をいれた総延長18,490歩、しかし距離にすれば四里弱で、旧東海道百二十里のほんの三十分の一にすぎない。

何回かに分けての道行き、必ずしもこの順番に通った訳ではなく、また、常に東から西への一方向で渡った訳でもなく、ある橋では東岸から西岸へ、別の橋では右岸から左岸へと歩いた。さらに、橋を渡り終えても通りすぎずに折り返してダブル渡河することもあった。行程の組み方、最寄りの駅からのアクセスの便などにより、渡り方は区区不統一、いい加減である。  なお、文中“・・・・・・”の引用箇所は十返舎一九作『東海道中膝栗毛』(岩波文庫)に拠っている。

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