火焔樹の下で (No-9)    

2004年9月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


「No. 1」「No. 2」「No. 3」「No. 4」 「No. 5」「No. 6」「No. 7」「No. 8」 「No. 10」「No. 11」「No. 12」「No. 13」 「No. 14」


(海老)
クアランプールを離れハイウエーを30分ほど北上してから、「今日は天気がいいのでマレーシアの田舎道を走りましょう」と言ってリチャードは地道に降りた。西に向ってクアラ セランゴールと言う町に入りそこから北上し曲がりくねった昔からの道を進む。しばらくは綺麗に手入れされた民家が続いた。そして小さな街に入ると急に中国語の看板が溢れる商店街になった。木や草の色が無くなり、ちょっと汚れた様な川筋にモルタルの商家が1km位あった。それが過ぎると今度は農園となりパームオイルの樹が延々と続いた。 私達は「エビ」ついてお互いの知識を語り合った。私は主にインターネットから拾った日本の市場の感じを伝えた。日本人の食生活で魚介類の消費はイカが1番で2番マグロ 3番サケ 4番がエビとのこと。重量比の価格ではマグロ、カニに次いで3番目に高い食品。 日本の輸入はこの種の黒いエビをブラックタイガー(BT)と称しているが、元々は輸入車海老と称していた。ところがその色の黒さが車海老市場から敬遠され販売は広がらなかった。そこで逆にBTと称し車海老と決別させてから、主に加工品市場で圧倒的なシェアーを占める様になった。最大の需要はてんぷら等加工用である。現在毎年10万トン強が輸入され、輸入冷凍エビ全体の40-45%をこのBTが占めている。ちなみに世界でBTの輸入のトップは日本が連続していたが、最近アメリカの輸入量が日本を上回る様になっている。サラダ用が多いらしい。 このBTの輸出元はインドネシア、インド、タイの3国で全体の80%を占めている。 どこを探してもマレーシアの名前が出てこない。どうやら価格に問題がありそうである。 このエビの卸売り業界では最近異変が起きているらしい。その原因はパソコンとインターネットの出現である。元来BTの様な価格変動型で先のも市場はプロの世界で商社や専門店が市場を独占していた。ところがパソコンとインターネットの出現で個人、多少なりエビの専門知識がある素人が卸売市場に入って来た。その結果エビの卸売り価格が値下がり続けている。要因は個人が必要とするの利幅が法人の求める採算点以下にあった為で、とうとう大手や専門商社らはうまみの無くなったBT卸市場から撤退しつつあると言う。 価格は2000―2500円/1.8kgが相場の様である。一方マレーシアの卸値価格も大雑把にRM40/kgとの事で、約30倍すると円になり1200円/kgになる。すると日本価格も平均を2250円/1.8kgは1kg当りにすると1250円になりほぼ同値になる。 「だから何とか大口需要家に直接販売は出来ませんか?それを考えて下さい。」「私は日本に出すまでの全てを受け持ちますから、その後を考えて下さい」更に冷凍工場も視野入れているとリチャードは訴える様に言った。私は日本の友人に教えてもらったことを素直に伝えた。 市場を通さないで直接大量需要家に売る方法もあるが、問題はエビにも鳥ウイルス同様病気があり一旦この病気が広まると1つのいけすがだめになるどころか、ある地域一帯すべての養殖エビが全滅する大惨事になり、大手需要家はどうしても市場からの調達を続けて供給不能の事態を回避しなければならない。 「加工出荷だって考えています。」リチャードは真剣に言った。確かに一方加工品輸出もありうる。でもその友人はこうも言っていた。てんぷらの揚げる直前状態での出荷等であるが、これの問題は水になる。「佐藤、全然違う問題だよ」。そして加工時に使用する水の条件は日本の水道水より厳しいと言った。「日本が求める水で加工しないと日本に輸出できないのだよ。」この水処理の設備投資とメンテナンスは半端な金額じゃないとダメを押されていた。2人はハードルの高さに考え込んでしまった。

(リチャードの過去)
それから約1時間マレーシアの道はY字やT字の交差点の連続で、小さな集落を何度の通過しているうちに突然道が行き止まりになってしまった。どうやら道を間違ってしまったらしかった。リチャードは車を停めて地図で現在地を確認してから車の外に出てタバコを吸い始めた。つられる様に直ぐ私も外に出てリチャードに「タバコをくれ」と言っていた。ライターも借りて最初の一口を吸い込んでから「やっぱりエビの日本輸出は難しいね」と言うがリチャードはまだ諦めていなかった。「冷凍設備も水も何とか出来ます。その養殖場の出資者は親類と郡の開発公団ですから」。リチャードはそう言ってから長々とその組織の説明をし始めた。初めて聞く話であったがその説明はもう私の頭に入って来なかった。ニコチンか頭を駆け巡ってふらふらしながら自分の気持ちが解ってきた。要はこの仕事を本気でやる気になっていないのだ。でもこの男はなぜそこまでエビにこだわるのだろうか。どうすべきなのか。 気がつくと2人は静寂な世界にいた。そこには高さ4-5m程の細い木が順序良く植えられていた。しかも木と木の隙間が全く無くてまるで壁の様に続いていた。「バナナの木かな?」「いやそれにしては高すぎる」2人はサトウキビのお化けの様な樹木を見つめていた。 やがてリチャードは奥さんの実家に電話をして30分到着が遅れると伝えてから車に戻ろうと告げた。 元の道に戻って北上する。州が変わりセランゴール州からペラク州に入った。大きな橋を渡ると道の両側に地平線まで伸びた水田が広がった。思わず目が奪われた。その時期水は無かったが稲穂が青々と続いた。多分多毛作であろうがこれは日本の景色そのものだ思った。地平線に目をやりながらマレーシアにもこんなに広々とした場所があるのだとリチャードに言うと、「この辺りはマレーシアで1番農業が盛んな地区で、米以外にも野菜や果物が沢山栽培されています。この東のカメロンハイランドではお茶を栽培しています」と自慢げに説明してくれた。やがて又パームオイル畑になり視界が狭くなった。
「なんでこの会社に入社したの?」私は昔に聞いたかもしれない事をリチャードに聞いた。 彼はゆっくりと口を開いた。「英国では卒業後インド人の経営する会社に3年ほど勤めていたのですが、貿易商の兄から商売を拡充するので手伝ってくれと言われマレーシアに戻る事にしたのですよ。」それからリチャードは懐かしそうに英国でのサラリーマン生活を語った。西ヨーロッパ全体を営業で回っていたらしい。「英国を去った理由ですか?やっぱりアジア人、それも旅行者でないアジア人が英国人社会で一緒に暮らすと、彼らの目線に屈辱を感じてしまうのです。親しくなってもどうしても無理があります。知っていますか佐藤さん?ロンドンなどには中国人のシンジケートがあり多くの盛り場を仕切っています。無論汚いアウトローな事ばかりやっています。結局多くの中国人が英国の社会に受け入れられなかったからです。」 「私も最後の方は酒場やナイトクラブに入り浸る様な生活になってしまい、このまま続けているとヤバイことになるなあと思っていましたから、兄の誘いを潮時に直ぐマレーシアに戻る事にしました」「ところが兄は私が戻ってわずか1年弱で会社ぐるみの投機に失敗し倒産してしまいました。私は役員でもあり兄の保証人にもなっていましたから連帯責任で負債を背負ってしまいました。禁治産者ですから就職が難しく、しかもその時すでに結婚を考えていましたから外国企業をさがして就職する以外に生活の手段がなかったのです」「なぜこの会社ですか?実はもう一つ受けたのです。豊田通商という会社です。今はその会社がどんな会社かよく知っていますが、当時はこの会社もその会社も同じような貿易をしている会社としか思わなかったのです。結局採用通知が豊田通商より1日早かったので、入ると約束しました。」 あの時、クアランプール責任者の決断が今日のリチャードを作り出したのだと思いつつ、その後英国留学生との付き合いを訪ねてみた。「そうですね。当時は1/4-1/3がまだイギリスやヨーロッパ諸国に残っていました。他の大部分はマレーシアに戻り、今はその半分がシンガポールかなあ。我々マレーシア中国人でヨーロッパに学んだものはどうしてもシンガポールの方が働き易いのですよ。それも製造業より銀行や保険業、政府系にも入れます。」 私は昨日会ったニザム氏の話をした。「彼は日本の女性と結婚したくて、日本に行ったと言っていたが、リチャードの場合、留学目的に女性は絡んでいなかったの?」「逆ですね。マレーシアに帰る目的に、中国人女性としかもマレーシアで育った中国人女性と結婚したいとはっきり思っていました。」それからニザム氏が中国人主体の日本留学生協会が人種差別をしてマレー人の入会を認めなかったと怒っていたと言うと、リチャードは皮肉な笑いで 「同じですよ佐藤さん、ここの英国留学生の同窓会は気位の高いマレー人ばかりで、中国人は入れてもらえません。だから我々中国人も英国留学卒業生の同窓会を作りました、私がその同窓会の今の会長です。」 何と私は2日続けて、日本と英国のマレーシア卒業生同窓会の責任者と話し合っていた。

(リチャードの義父母)
「ところで佐藤さん、思い出したのですが、これから行く所では椰子酒が飲めるのですよ。知っていますか椰子酒のこと」「勿論知っているし、昔飲んだことがあるよ。ぴりっとした酸味があった酒だたよね?」「それはもしかして発酵が進みすぎたやつかもしれません。椰子酒は朝作って昼頃飲むのです。」「よし解った。早く行こう。」時計が気になった。 やがて地図上では大きなデルタ地帯の真ん中にある小さな都市に到着した。そこはマンジュン郡といいペラ州中央部の海岸線で、対岸には近年リゾートスポットとして人気があるパンコール島がある。小さな都市のわずか数キロの市街地を抜け、横道に入り簡素な住宅街の一角にあるセミデタッチデと呼ばれる民家の前で車は停まった。1mほどの金網の塀で囲まれた庭の向うに少し青みがかった白いペンキの平屋があった。その庭先に大きなマンゴの木が1本あり周りは駐車場スペースを除き全部芝生になっていた。リチャードは金網ドアを開くとその中に車を入れた。やがて家のドアが開き小柄な年配の男性が顔を出した。「義父です。」私にそう告げるとリチャードは車を降りた。ややあってその人の奥さんも現れ、優しそうな微小で私に家に入るように勧めた。「これから義父の案内で養殖場に行きますからちょっと一服しましょう。」 部屋に入るとまず壁に額縁に入った3枚の大きなカラー写真が飾られているのが目に飛び込んで来た。この夫婦の子供の3姉妹がそれぞれの伴侶と結婚式に写した写真であった。その真中にリチャードが生真面目な顔をして美しい女性と写っていた。リチャードは3姉妹の真ん中の女性を娶ったらしい。 「私達は定年後、クアランプールからこの街に移り住みました。今は夫婦2人きりでこうしていて、リチャードが家族や友人を連れて時々訪ねてくれるのがとても楽しみです」義父は流暢な英語で話し掛けてくれた。他の2人の娘はマレーシアの外で暮らしているらしかった。元々義父の仕事は保険の営業で義母は教師だったとの事で、今義父はこの街に住み着いてからはゴム園の権利を友人らと共同購入し老後の悠々自適を考えている。実際にそのゴムの木の管理をしているのは別人らしい。「途中にそのゴム林がありますから、是非見て下さい」お父さんは静かに言った。 又帰りに寄ってちょうだいと優しく言う義母に熱い中国茶を頂き、直ぐ3人で養殖場に向うことにした。又市内に戻りそこを縦断して郊外に出てから、車は細い横道に入った。やがてまるで雑木林の様な痩せた木々の道に入った。「私のゴム園です」リチャードの義父は柔らかく言った。
「マレーシアのゴム農園は衰退してきています。色々な問題があるのですが、特にゴムの木は成長が遅く樹液が取れるまで5年位かかり収益性が悪いのです。だから皆パームオイルの木に変えてしまったのです。パームオイルは3年で成長が終わります。又ゴムに比べると木の管理が格段に簡単で、就業者の数も少なくてすみます。」 昔ブラジルがブラジル帝国と名乗っていたころ、このブラジル原産のゴムはヨーロッパで金と同じ値段であったという。当然苗木は国外持ち出し厳禁であったが、あるイギリス人の若者がそれを盗み出した。そしてセイロン島でゴム栽培を始めたと言う。しかし土壌が違うのかゴムの木はセイロンでは根付かなかった。そこでそれを更にマレー半島に持って来て植えてみたところ、ブラジルよりも遥かに気候や土壌が適合したらしく全土に広がり、イギリス植民地の土台として一躍マレー半島は世界最大の天然ゴムの生産地となっていった。そのマレーシアで今大規模ゴム園の数が急激に減少していると言う。 曲がりくねった細道でゴムの木々を更に進んだ。ところどころに我々がコブラ塚と呼んでいる土の塔がある。ゴムの木は他の植物より樹液が甘い為野ねずみが夜かじりに来るらしい。それで天敵のコブラを放ち野ねずみ駆除をさせている。大きいものは幅50cm高さ1mもある土の塔は不気味であった。毎朝樹液を搾取されるゴムの木は決して太くならない。まるで栄養失調の様に青白く痩せていた。下草が多いのも気になった。 更にそれから30分、車はどうやら最後の低いブッシュを抜けた。未舗装の道路はでこぼこになっていた。前方に横にずうっと続く鉄条網が見えてきた。その向うは大地がポカンと抜けた様に何にもなかった。見えるものは空と剥き出しの白っぽい土が真っ平らにあるだけであった。我々の車は3m程の高さがある鉄条網と木枠だけのゲートの前に停まった。間もなく鉄条網の向う側に左から真横に走る車が現れ、ほぼ正面で直角に曲がって我々の方に下って来た。やがて鉄条網の前で停車し中から中年の大男が出て来た。 その男は6尺男と言う昔の表現がぴったりだった。分厚く長い胸板にがっしりとした下半身がくっ付いていた。短く刈った頭から100%赤銅色に焼けた顔があり、その色が彼の体中を染めていた。彼の着る細い縦縞が入った白い半そでシャツの上半分のボタンが開いていた。そして左胸の部分には大きく真っ黒な油汚れがあった。やがて彼はゲートの鍵を開きはじめた。その意外に愛嬌のある笑顔をみつめながら、誰かに似ているなあと感じた。武蔵丸、西郷隆盛、いやイースター島の石像「モアイ」がぴったりの様な気がした。我々はモアイの後についてエビの養殖場に入った。                
 (続く)