火焔樹の下で (No-8)    

2004年8月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


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バスの旅―3

(クアランプール バスターミナルにて)
歩き続けるとようやくクアランプールのバスターミナルビルの前に着いた。見上げるとその建物は10階以上の高いビルで上部はホテルになっていると聞いていた。そして地下へのスロープから始まったバスの行列がはるか1km先まで続いていたのだと知った。中二階風のロビーへ向って階段を登って行くと直ぐに数人のダフ屋が中国語とマレー語で話しかけてきたが煩くは付きまとわなかった。振り返り外の様子を眺めると前にある歩道橋の反対側で3人の中国女性が迎えのミニバンに乗り込むところだった。よく見るとTシャツ姿になったブレンダ達だった。その時携帯電話の振動モーターが着電を伝えた。これから会うニザム氏からで、彼もこの渋滞に巻き込まれ30分ほど遅刻するとの連絡であった。 中に入ると外が明るすぎたのか広い空間は薄暗く見えほとんど室内照明が無い様に思えた。どうやらそこは屋根と壁の間の隙間から太陽の光が間接的に入っている様であった。 中の風景はその半分がロビーになっていて横いっぱいが見渡せた。壁の道路側に添って飲料水や駄菓子を売る売店が切れ目無く並び、ごちゃごちゃ人がいっぱいいて皆動き回っていた。フロアーには5-6mの間隔で地下のホームに下りる階段の手すりが並んでいた。その沢山ある階段の間に長方形のテーブルの様な座り場がありマレーシア各地に向う客が時間待ちしていた。一方入り口から向かっての左は旅行客向けの本格的な商店がちょうど空港の様に宝石店衣類店本屋と沢山並びその奥にもカメラ店や電気店と続いていた。入り口の正面には上に登る階段があり、その後ろ辺りから無数のバスチケットのカウンターが並んでいた。大体は間口1m弱 奥行きもそんなもので、両腕を台の上の乗せて1か2人の女の売り子が通りすがりの人に威勢良く声をかける「ジョホールバルー 直ぐ出るよ!」「ペナン まだ席があるよ!」「おじさん!おじさん!何処に帰るの?おいでおいで」中には立ち上がりガラスの上から身を乗り出して叫ぶ売り子もいた。その前もマレーシアを構成する全人種の老若男女がぞろぞろ切れ目無く歩いていた。この国では人の移動の大動脈がここから始まっていると知った。 右奥には屋台をそのままビルの中に入れた様な食堂街があり、店の前に沢山の椅子とテーブルがあった。時間があるので又何か食べることにし歩き回ってみて結局中華風の売店を選び福建麺を頼む。この福建麺は変なことに2種類あり柔らかい焼きソバながら黒と白がある。白の店では白だけ、黒い色のそばを焼く店は黒だけを出す。私の好物は小えび入りの白の方で黒の味は他のソバと変わらない。この白も店によって味が全く異なり、うまい白を食べさせる所は行列が出来るほどである。期待して食べてみたがこの屋台の店の味は「いまいち」であった。軽い塩味での味付けだけなのによっぽど難しいらしい。 日本円わずか100円程度の食事をしてから真中に戻り2階へ登った。そこには右横に有料の男子専用公衆トイレがあり受付の若いマレー娘が新聞を読みながら30セントをチェックしていた。女性用は更に上階へ行かなければない。 左側は駐車場になっていて、1番手前にはタクシーの降車場があった。そこがニザム氏との待ち合わせ場所だった。

(ニザム氏)
やがて1台の白い乗用車がスロープを登って来て私の前辺りでUターンした。運転席に眼鏡をかけたニザム氏がいた。助手席に乗るとニザム氏は人懐っこい表情で「御無沙汰しています。佐藤さんお元気でしたか?」と流暢な日本語で話しかけてきた。 車はそのままスロープを下りビルの外に出た。渋滞の激しさは変わらない。「マレーシア人の運転はでたらめでしょうがないですよ。譲らないし、割り込むし、まだまだですね」とまるで自分はマレーシア人で無いかのように言う。彼は根っからの日本フアンで「機会があったら又日本に帰ってずーと暮らしたいですよ」とまるで望郷の様に日本を懐かしがっている。 「私はモハド ニザム ビン モハド アミンと申します。通常はニザムだけで結構です。ニザム ビン モハドのビンはオサマ ビン ラデンと同じでモハドの子という意味です」ニザム氏との初対面の挨拶はこんな風に始まった。 ニザム氏は30歳台半ばのマレー人でイスラム教徒である。ただお爺さんがタイ人であったとの事か小柄でやせていて、風貌は真っ黒な直毛で日本人の様に顔は平面である。そしてちょうど明治時代の洋行帰りの日本人が未開の自国民を嘆いたであろう様にマレーシア人の欠点をよく嘆いた。あながち日本人に媚を売るのではなく、本当に嘆くのが可笑しかった。 彼との接点には元の会社の大先輩がいる。その人は引退後教員免許を取ってこのクアランプールに日本の私立大学が直系の語学学校を開いた時から校長として赴任していた。今年72歳でまだ現役である。その語学学校はマレーシアの教育省と深い関係もあるマレー人の名士を副校長に迎えていた。ダトーと言う貴族称号を持ち、今も日本企業の社外役員を数社掛け持ちしている40歳代の実業家で、日本的に言うとその「子分筋」に当るのがニザム氏である。 元々マレーシアからの留学先は日本の場合圧倒的に中国系が多かった。マレー系の大体は旧宗主国を中心としたヨーロッパ諸国が圧倒的であったらしい。ところが有名なマハデール首相が提唱した「ルック イースト」政策からマレーシア政府は主に日本へマレー系の学生を送り込む様になった。又一見対立しながらも、将来を見据えてしっかりと毎年アメリカにも優秀な人材を公費留学生として送り込んでいた。 ニザム氏は当時マレーシア唯一の大学であったマラヤ大学に入学した。マレーシアでの大学進学者は中国人が多い。そこでマラヤ大学に入学したマレー人の学生をマレーシア政府はまるで掌中の宝の様に大事にした。そしてこれぞと思う学生を欧米に留学させた。いわば後継者作りである。ニザム氏もマレーシア政府の中でアメリカ留学が決まっていた。ところが大学と教育省からそれを伝えられたニザム氏はにべもなく拒否し日本留学を要請した。「どうしてだ!どうして言う事を聞かないのだ!将来を保証するからアメリカに行けと猛烈に説得されました。」「でも絶対に日本にしか行かないと頑張ると、とうとう政府の人は怒ってしまい、じゃあ勝手にしろと言われました。」それから1年間日本語の勉強をして日本文部省の留学資格試験の合格し東京農工大の工学部に入学した。ちなみに入学先が何処になるのかは文部省が決めるとの事。ニザム氏は天にも昇る気持ちで日本にたどり着いた。 「ニザムさんはどうしてそんなに日本に行きたかったの?」「本当はですね、当時は絶対に言えなかったのですが、僕はどうしても日本の女性と結婚したかったのですよ。」

(マレー系のマレーシア)
日本での生活はニザム氏にとって最も幸せな時代だったらしい。そして大学卒業後も引き続き企業に就職し8年間ほどその時代が続いた。しかし最大の目的であった日本女性とは結婚出来なかった。「なんでですかね?学生の時はバイトが忙しく、会社に入ると仕事と付き合いにばっかり時間をとられましたからでしょうね」ニザム氏はすし屋のアルバイトと授業で全く個人的な趣味と時間を持てなかったと残念がる。ニザム氏に言わせると留学生の1/3は日本の女性と結婚したと言う。「しかし佐藤さん お陰さまで納豆が大好きになりました。佐藤さんは納豆食べられますか?」 帰国後数年間ニザム氏は日本企業のシャープやオムロンで品質管理のマネージャーをした後、多少紆余曲折があり、今は独立して日本などの技術をマレーシアに根付けさせようとマレーシア政府や公営企業を回る商売を始めている。彼の頭脳には日本大学と企業の技術ノウハウが詰まっていた。そして同じ様な技術を持つ友人達と提携し、難問解決や提案型の技術者集団を作った。 マレーシアの企業は中国人によって牛耳られているとよく伝えられるが、その中国人が全く手を出せないのが政府系の事業体である。これら企業はニザム氏のはるか先輩達がトップを占め、幹部も従業員もマレー系が圧倒的である。その特徴は、全ての設備や技術更に経営スタイルまで先輩達が学んだヨーロッパをモデルにして運営されている。 今回ニザム氏に連れていかれた地下鉄公団もそんな企業であった。そこの補修部門の事務所にはたった1人の男性と3人ほどの事務職女性が働いていた。 最近クアランプールの地下鉄がそれぞれ路線ごとに別々の企業体であったものを統一して1つの公団にする事が決まった。この地下鉄網は現在25の駅を持っているが、車両や駅舎の機器や全てがヨーロッパから持ち込まれた。その時ヨーロッパの企業はこう言ったらしい「大丈夫、修理や保全は全部私達がやるから、あなた方はわざわざ補修の従業員を採用しなくて結構です」。地下鉄は動いた。そして徐々に部品が綻びてきた。でもマレーシアの地下鉄公団は一切の設計図も無くシステムの説明書も何にも与えられていなかったから、全て修理はヨーロッパの企業が行い、例えば切符の自動販売機のお札を運ぶベルトが緩んだだけで新品の自動販売機に変わってしまった。会社はその為かどうか膨大な赤字を抱え修理費の削減に取り組む必要が生まれた。合併の理由も赤字対策であったらしい。 ところが実際には例えベルト1本でも買えなかった。勿論設計図も仕様書も無いからであった。そこでそれらの機器の設計図や仕様書を誰か頼んで作る事にした。我がニザム氏登場となった。彼はこうした国営企業の現状を知りその難問解決を仕事した。リ.エンジニアリングと称して、主に国営企業や国軍や大学の設備や備品の仕様書を作り、設計図を製作して部品の調達を可能にしてあげる。「ヨーロッパの企業のマレーシアに対するビヘービアはまだ植民地のつもりで、吸い上げることしか考えてないのですよ。頭に来ます。」

(日本留学生協会)
「私はマレーシアに帰ってから、当時のマレーシアで日本の大学を卒業した人たちのクラブを訪ねたのですよ。ところが会員のほとんどが中国人で私達マレー人を何とかかんとか言って入会させてくれないのですよ」「それで頭に来て教育省に文句を言ったのです」「教育省の役人が、それじゃ君達が中心になってマレー人の同窓会をやりなさい、政府は全面的に援助するからと言ってくれまして、あのダトーを中心に新しい日本留学卒業生の同窓会の別を作りました」「今もマレーシア政府の日本留学生は年間150人 それと日本政府の官費留学生150人 合計300人の留学生が毎年送られています。私達のクラブも今3000人の会員を持っております。すごいですよねえ。全部マレー人で80%が理工科系卒業です。大半がマレーシアの日系企業の若手技術者になっています。私は今その製造業部会の部長をしています。理論的には80%の会員が私の部におります」「日本大使館は何時も私達のクラブに協力は惜しまないと言ってくれています。なんだかんだ毎月大使館に行って打ち合わせをしていますし、クアランプール日本商工会議所の役員とも定期交流する様にしています。」「私達も日本とマレーシアの架け橋になりたくて、日本の行事や祭りは日本人会や商工会議所と一緒に参加します。盆踊りや運動会やクアランプール日本人学校のホームステーなど沢山の事をやっています」「そうですね、日本政府もよく私達を日本に招待してくれるのですよ。世界の留学生や卒業生を集める集会にゲストやマレーシア代表で参加して下さいと言って来ます。私には会議はどうでもいいのですが、その機会に同級生に会ったり、東小金井辺りを訪ねると、本当に懐かしくなってしまいます」東小金井はニザム氏の母校のキャンバスがある所らしい。 「この間引退したマハデール首相とグループ代表数人で会う機会がありました。彼はいまだにマレーシアの最高実力者です。彼に私達の活動を話しますと自分はそういう活動が起きるのをずっと待っていた、だから好きなようにやりなさいと励まされました。嬉しかったですよ。」「その後私達は韓国の商工会議所がマハテールを呼んでパーテーを開いたことをつかみました。それで今年は日本の商工会議所が彼を招待すべきだと会頭さんらにサジェスチョンしました。やっぱりやらないとかっこ悪いですよねえ」「そしたらよろしく頼むと言われました。大丈夫です実現できます」 この汚れ無き憧憬と奉仕に私はどう答えればいいのか解らなかった。「私は今でも家ではNHK国際放送を観ています。そして子供達に日本に行ける様勉強しなさいと言っています」「私は日本の女性と結婚したかったのですが、結局マレー人の女性と結婚しました。でも私の妻が何時も言っています。私日本人と結婚したみたい。」 そこに彼の携帯電話が鳴った。マレー語で受けて相手が解ると急に会話が日本語になった。 「そうか、いいよ。僕の方から連絡します。それじゃ、ハイ どうも、どうも」「日本人?」「いいえクラブ(留学生協会)の仲間です。ぼくらはほとんど日本語で話しています。しゃべらないと忘れますから」。 その夜2人で食事を共にした。 「私はマレー人ですから、中国料理は食べません。日本食ですか?勿論大丈夫です。ブタ以外は」「実はブタも日本では食べました。留学生はお金ありませんから、トンカツとかブタそのものは食べませんが、いちいち内容を聞くわけも出来ませんから、多分これはブタの何かがあるなと思っても食べないわけにはいきませんでした。」「お酒ですか?いいですよ、一杯くらいなら大丈夫です。」「イスラムの教えに背くか?そんな事ありません。だいたいイスラムの教えの基本は自己管理なのです。それにイスラム教だって色々なのです。厳格に戒律を守っている人もいますが、大半は普通の人なのです。アルコールを厳格に禁止しても、だいいち注射の前の消毒アルコールを肌に付けてはだめだと言えませんよね?」「過激派がテロをしていますが。我々に言わせますと、そんなこと経典の何処に書いてあるんだと言いたくなります。全く訳が解りません。」 食事後ニザム氏は事務所に戻ると言って帰っていった。マレーシア空軍関係の電子システムのプロジェクトにオファーする為に、今夜仲間がジョホールから4人事務所に来るとの事。「何時もの事で、皆徹夜で仕事をします。ホテルに泊まるのがめんどうくさいと言って、皆私の事務所の床で寝るんです。若いから平気なんです。」

(リチャード タン)
翌土曜日の朝、ホテルの食堂で朝食をとっていると又ブレンダに声をかけられた。よく会うものだと驚いたが、彼女の会社のマレーシア法人の事務所がこのホテルとショッピングモールを中心とする区域の中にあり、このホテルが定番になっているとの事だった。昨日と打って変わり、薄い紺色のスーツとタイトスカートでびしっと決まっていた。今日は彼女の会社で展示会がありシンガポールに戻るのは明日の日曜日との事であった。まもなく昨日一緒だった3人が同じ色のスーツ姿で食堂を出て行った。 朝9時丁度に、リチャードが車を運転してホテルの前に現れた。つい最近出張してきた彼にシンガポールで会っていたが、何時ものネクタイ姿からTシャツを着た姿が珍しく思えた。「おはよう」言い合ってから助手席に乗せてもらった。ホテルの周りを周回すると、直ぐハイウエーに入った。 「その町までどの位かかるの?」「3時間から3時間半くらいかな」「それじゃお昼に着いてしまうじゃないの」「そう、昼飯に海老を食べましょう」「それから夜までどうするの」 リチャードは言い難そうに今日の夜までにクアランプールに戻りたいと言った。どうしてかと聞くと、翌日日曜日に用事があり今日中にどうしても戻るのだと言った。「遅くなったら佐藤さんは我が家に泊まってください」。どうやら、月と渚と椰子の木が遠くかすんでいった。 それから数分黙っていたリチャードが前を見ながら「実は教会のミサに行くからです」と言った。「エッ、リチャードはクリスチャンだったけ?」「そうです。去年改宗してクリスチャンになりました。それから日曜日のミサは家族全員で、一度も休んだ事はありません。」何か改宗の理由はあったのかと聞くと「ええ、色々ありまして家族で悩みぬいた後、クリスチャンになることを決めました。友人の紹介でしたが、改宗してからは沢山の人々に励まされて元気になりました。今では本当によかったと思っています。」それから彼は悩みぬいた日々の苦悩を語り、改宗してからは社会奉仕や地域の世話をする事に生き甲斐を感じていると語った。今は過去を平静に受け止めていると笑いながら言った。 ふと今回リチャードから電話を受け取った時に感じた違和感が蘇った。そんなに心を入れ合った人間関係でも無かったのに、何故彼は私にエビを食べようと誘ったのだろうか、まだ本当は何かに悩んでいるのだろうかと心を過ぎった。 長い緑のトンネルを見つめながら、私はリチャードの事で何を知っているのか考えてみた。彼との付き合いも仕事を中心に断続的だが10年を超えたはずである。それから更に数年が過ぎていた。彼も40歳は越えたはずである。彼の悩みとは?と考え思い出した。そうだ、この男は英国の大学を卒業していた。
「佐藤さん、変な男が応募してきました。えっ?いいえ学歴が高すぎるんです」当時のクアランプールの責任者から電話で話を聞いた時、そんな男がうちの様な会社に勤まるはずがないと思った。「止めとこう」と言うと、少しふくれた声で「でも他に応募者ありませんよ、どうするのですか」と言う。確かにあの時マレーシアの就業率は100%の様で男も女も採用が困難であった。「長続きしないだろう?雇っても」しかし彼は「長続きするかどうか、やるだけはやってみますよ」と言って電話は終わった。多分1992年頃であった。 学士リチャード タンが営業マンとしてわが社に入社した。 その翌月だったであろうか、私はシンガポールとの合同営業対策会議か何かでクアランプールの事務所に行きリチャードに初めて会った。髪型はオールバック、ちょび髭に黒ぶち眼鏡の奥の目が優しそうに感じた。きちんとネクタイをしていた。 その会議は何時も通り営業マン各人が自分の顧客状況の口頭報告を行ない、あそこのお得意さんやそこの仕入れ先が滑ったの転んだのを繰り返して白熱し、皆適当な仲間意識に浸っていた。 やがて最後に新人リチャードの番になった。彼はやおら5枚位のレポート用紙を全員に配った。そして「では初めに世界情勢とマレーシア経済の概況を申し上げます。注目すべきはアメリカ政府発表の…..」としゃべりはじめた。皆びっくり仰天し何が起こったのだと言う顔で早く止めろと私のほうを見た。クワランプールの責任者だけ嬉しそうな目をしながらクスンと一声笑いレポート用紙から目を離さなかった。意に介さずリチャードは全員の顔を見ながら「次にわが社関連の業界動向ですか、まず日本企業では~」 その内容は無論新聞の記事程度の内容でしかなかったが、超実利主義者の中国人だけかと思っていた私には、彼だけは人種か出身が違うと感じてしまった。当時はシンガポールとクアランプール合わせて25人位のスタッフだったろうが、日本の学校制度と全く同じとは思わないが、ローカル社員は高校卒の会計が1人で後は全員中学卒からせいぜい職業学校出身者であった。学歴社会としては日本より硬直しているマレーシアで大卒者はエリートである。そんな彼が異邦人の日本人は別としても、ローカルの上位者に従う事が出来るのだろうか?それよりもまず社内で友達は無理だろうなと正直その時に思った。 10分位過ぎた後、しびれを切らして私は思わず言った。「リチャード総論はもういい。自分の仕事の事を言ってくれ」「自分の仕事の事はまだ何も話せません」そう言ってリチャードは私を見ながらあきらめとテレの混じった顔で笑った。                                      
続く