火焔樹の下で (No-6)    

2004年5月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


「No. 1」「No. 2」「No. 3」「No. 4」 「No. 5」「No. 7」「No. 8」「No. 9」 「No. 10」「No. 11」「No. 12」「No. 13」 「No. 14」


かつての部下でマレーシアのクアランプールのリチャード タン君から電話をもらったのは4月のある土曜日の夕方だった。 「サトさん、私の妻の親族がマレーシアでブラックタイガープロン(車海老)の養殖をしています。私は普段エビは食べないのですが、妻や子供とそこに遊びに行くと、その時だけはエビを食べます。それはめったに無いほど新鮮で身がしっかりと詰まったブラックタイガーなのです。それを今度一緒に食べに行きませんか?」 「そうです。理由はあります。その辺りの養殖業者はシンプルな心の持ち主ばかりで、仲買人の言う値で商売をしていてほとんど利益を上げていないと思うのです。だからサトさんがもしそれに興味があるのなら組んでエビを日本に直接輸出をし、親族達に利益をもたらしたいと思っているのです。もし将来企業化出来るのであれば私も参加したいと思っています。正直な話。」 「それはそれとして、ただ食べるだけでも行ってみる価値がありますよ。クアランプールから3時間半のドライブです。私が是非ご案内します」 私には海老の輸出など考えたことも無かったし、今後も考えるつもりは無かった。しかし電話が終わってからビールを飲み始めると、徐々に口の中に塩茹でした海老の香りが広がった。何時の間にかいそいそとマレーシアの地図を広げた。その町の名前が小さくあった。よしマラッカ海峡のふちでタイガ―プロンを食べながら冷えたビールを飲むのも悪くない。ラグーンの夕焼け、あたりは多分遠浅の砂浜に青い海、陸地は椰子の木とブーゲンビリアの真赤な花。緑の絨毯だろうか?月もあった方いい。 それにしても海老の輸出か!そんな事出来ない理由ややらない理由なの山ほどある。でもトライも面白いかもしれない。人が言う様にどうせ人生そのものが死ぬまでの無駄な時間かもしれない。要はどう退屈しない事なのだ。勝手な理屈が出て来た。

(バス ターミナル)
5月最後の週、金曜日の朝に私はシンガポールからマレーシアの首都クアランプール行きのバスに乗った。都心部のはずれビーチロードの東端にあるゴールデンマイルズの長距離用のバスターミナルには独特の雰囲気があった。なによりも数ある食堂から流れ出る激しい香辛料の匂いがビル全体を覆っていた。その匂いの中にバスのチケット売りの店が所狭しと並び沢山の旅行客がその前を往来していた。最大の顧客がタイから来ている出稼ぎ労働者であるらしくターミナルビルはタイの象形文字の看板がいたる所にあった。それと新鮮なの印象は中国漢字のマレーシア都市の行き先地名。それらはシンガポールの表面の部分ではほとんど見られない風景であったがここではまだ残っている。 クアランプールまでのバスの旅行は駐在員時代見向きもしなかった。しかし今の自分にとっては安く安全に行くための有効な手段である。時間は飛行機が待ち時間や空港からの移動時間を入れても、シンガポール―クアランプールはせいぜい3時間もあれば足りる。しかし料金は最低でもS$200以上である。一方バスは正味時間でどうどう5時間かかる。高速道路が整備されてから、もし個人の車で行ったらやはり3時間以上はかかる距離である。そうそうバスの料金は片道S$28である。 このバス網はマレーシアを南北に縦断して東南アジア各国や遠くバングラデッシュやインドまで可能である。たまたま数ヶ月前の夜、タイ風水炊き料理店を探して偶然このビルの駐車場に迷い込んだ事があった。土曜日の夜だった。そこで見たものはこのターミナル全体が多分タイやミャンマーといった国に帰る男たちで溢れかえっていた風景だった。夜間駐車場の中の暗い部分に幾つものグループの輪が出来ていた。そこから溢れた人々はビル内部のターミナル全体を埋め尽くし、更にビルにつながる歩道や陸橋の上にまで埋め尽くしていた。つつましい彼らはそこで何時間も前から国への出発時間になるのを待っていたのだった。 午前7時の今、何故か中国人の個人旅行者ばかりが目立っていた。ビルの内部に入ってみると全く内装がない真っ黒な剥き出しの天井が殺風景で、中2階のタイ人労働者が国に持って帰る土産の為の店とスーパーマーケットにも全く人がいなかった。時間調整のつもりでスーパーに入ると展示品は皆タイ語で書かれた説明と値段表示が付いてあった。 出発時間15分前、バスの番号が書かれたチケットを持ってバスを探しGrassfieldと書かれたバスに乗った。バスは中二階に座席があるリムジンバスで、大きな荷物の収納室も床部にある堂々としたバスであった。緑色の大きな座席が整然と並んでいて意外なほど明るく全部を見渡せた。窓も大きくその左右に扇型に束ねられた緑色のカーテンがなぜか綺麗に見えた。同じ緑のビロードの席は右窓側に1席、そして通路があって運転席側に2席のわずか3列であった。縦は8席で最後部にトイレと思われる扉があった。冷房がきつく寒いくらいである。今日の乗客は老夫婦が3組と後は学生らしい男女が8人位いた。更に年齢不詳の男女5名と私、計20名である。運転手は2人いて、彼ら自身でチケット確認しミネラル水のボトルを配り、運転席に戻ると同時になんの合図もなく突然バスは発車した。そして直ぐ停車し乗り遅れた白人の若者を拾ってからターミナルを離れた。 乗客21名である。料金は片道28Sドル 総売上588ドル(35-36000円)である。これでもマレーシアの人権費と経費で採算が取れるのだろうか。彼ら運転手は片道350kmを何往復するのであろうか。つまらぬ計算を暫く頭の中で続けた。

(ジョホールの旅)
バスはシンガポール島を西に進み30分ほどで国境に到着した。国境事務所でバスを降りシンガポール出国を済ませ又同じバスに乗る。第2コーズウエイと呼ばれる海峡を橋で渡りマレーシアに入った。ジョホール州である。そのままはジャングルの中に切り開かれたハイウエーを進むと入国事務所が見えて来た。そこに横着けして運転助手は大声で「荷物は全部持って行って下さい」と初めて叫んだ。15分程で全員が入国手続きを完了してマレーシア国内側に移動して来たバスに戻る。それからは一路クアランプールを目指してバスは高速道路を邁進した。座席は全て肘付きのリクライニングシートで大部分の乗客は直ぐに背を倒して睡眠に入った。緑がまぶしく光っていた。 2人目の運転手はバス全部の窓に薄い半透明のブラインドを下ろし回ってから、右最前列のシートを倒し毛布をかぶって睡眠態勢になっていた。私はシースルーのブラインドからただただ緑が続く外を眺めていた。全く他の車の影を感じさせないほどハイウエーは閑散としていた。すると突然ピピピ ブルブルと沢山の携帯電話が鳴り出した。私も自分の携帯電話を取り出した。どうやらシンガポール国からマレーシア国の電話局の管轄下に入った事を知らせる呼び出し音であった。 それにしてもこの携帯電話、すっかり世界を変えてしまった。妄想が現れた。すぐ世界の人口と同じ台数が必要になりそうな予感がした。多分産院で赤ちゃんに携帯電話を渡し、墓場の前で回収する。携帯電話番号が戸籍になり住民票になりパスポートになるのだろう。世界中に何十億あっても絶対に同じ番号がないのだから。

(マレーの結婚)
私も背もたれを倒し寝る態勢になり目を閉じた。バスのスピードは速く、並みのスピードの乗用車を追い立てる様に追い抜き車線をフルスピードで進んでいた。 けだるい雰囲気の中でこのハイウエーが出来るはるか昔からこの街道を何度も走っていた時の1コマの思い出が蘇って来た。それははるか40歳そこそこの時代の記憶であった。当時この辺りの地道は人口が希薄で、夜になると村人が立ち木を切って倒し、道路を塞いで金品を強奪するとの記事が時々出ていた。
あれは1983年だったろうか。友人家族とシンガポールからマラッカまでの旅をした。ジョホールバルーの市街地を抜け2時間も走ったころであった。片田舎の街道沿いにぽつんと創作土産屋があり、休養を取るためにその前に車を停めて中に入った。「この店主はデザインの勉強を一応してるね」既に装丁家として日本を代表する1人となっていた友人はその店の貝細工製品を眺めながら少し満足した様子でつぶやいた。客は我々と他に1組だけであった。中国人の若い店主に聞くと日本でデザインの勉強をしたと言う。他の客を送っていた奥さんも出てきた。「間もなくマレー人の結婚式が始まりますよ。よい機会だから見学したらどうですか」と言った。奥さんも田舎にはそぐわない感じの都会的な美人であった。 何かの音が聞こえて来た。我々は土産屋の店先に並んで音の方を向いた。すると2車線の狭い国道の右手からその行列は突然白日夢の様に現れた。激しいリズムの中にも何か南のおおらかさを感じさせる打楽器の楽団10名位を率いて新郎が友人らとゆっくりと行進していた。我々も新婦の家に向うと言うその行列の後を追った。全員男だけ。新郎はビロードの様に光る緑っぽい婚礼衣装をまとい、演奏者はたしか黄色い腰巻の様なマレー風俗であった。そしてわずか100mほど離れた小集落の中にある新婦の小さな家に着いた。ガラス窓から新婦の部屋の中が見えた。部屋のほぼ中央、たった1つの椅子にマレーの伝統衣装で飾られた美しい花嫁が座り、その周りを数十人の若い女性が取り巻いて、皆入り口の方を向いて床に座っていた。全員が着ているマレーの伝統ドレスが華やかで笑みも美しかった。 やがて到着した新郎のグループからマレー式礼装の新郎の代理人が出た。入り口付近でお金を1番前列の娘達に渡しながら「お嫁さんを下さい」と多分言ったのだろう。女性たちは楽しそうに「花嫁がほしいなら、私達にお祝いをもっとたくさんちょうだい」と叫ぶのだろう。男はその女性たちと交渉を始めたが、すぐあきらめて更にお金を上積みした。でもより沢山の娘達が声をそろえて「そんなはした金では嫁にはやらない」そして囃し立てた「もっと もっと」「私にもちょうだい!」。とうとう代理人はズボンのポケットから現金の束を出しては新婦側の娘の手のひらに積み上げていった。それは伝統的儀式の様にあるいは若い男女の秘め事の様に長々と続いた。その間新郎は野外に待たされていた。まだ交渉は決着しそうになかった。彼等に時間は不用なのだろう。 新婦の家の周りをみるとテントと長机に折りたたみ椅子だけの野外の質素な宴会場が用意され近所の小母さん達が飲み物の準備をしていた。それを覗いていると手招きされその椅子に我々も座った。親切で素朴な人々はココナッツミルク入りイチゴジュースの様な飲み物を振舞ってくれた。1口飲むとコクのある薄い甘味が広がった。来客の姿はまだちらほら、民家の奥にはゴムの林が太陽に光っていた。新婦の家の前にはまだ新郎が待たされていた。昼下がりの夢はまだ続いている様な感覚であった。汗が流れた。

(ドライブインにて)
バスはジョホール州の最北の部分にさしかかっていた。何度かスコールが通り過ぎた。バスはマレー半島の背骨の様な高地を登り始め、高い山裾を巡るように峠を越えた。やがて分水嶺を越えたのか長いくだり坂を進んだ。窓に初めて右前方に緑が無限に続く様な樹海が広がって来た。その緑全てがパーム油農園の植林であった。丁度マレーシアに入って2時間位経った頃、高地を走り続けていたバスは説明無く高速道路を降りドライブインに入った。 アメリカのスーパーほどの広さがある1軒屋のドライブインの駐車場にバスは入った。色とりどりのバスが10台以上頭をドライブインに向けて突き刺さった様に駐車していた。その狭い間隔にこのバスも停車した。ドアが開くだけで誰も何にも言わない。皆の後に続いてバスからおりると、冷えた体を30度の大気と湿気が包んだ。入り口など無い、いや壁すらない。そこはすぐに高い天井に沢山の扇風機が取り付けられた固定型の椅子とテーブルが沢山並んでいるごく普通のキャンテ―ンと呼ばれる食堂であった。旅行客が三々五々食事をしていた。その奥にはマレー風料理といってもごく庶民的な食事が並んだショーウインドーがあった。私も皆に混じってプラスチックのどんぶりに黄色く太いラーメンと若干の付けたしがあるだけの食べ物を選ぶ。ほとんど表情も変えず、客の方を見向きもせず、店員は無口にお湯の中に麺を浸し、やがて取り上げどんぶりに戻しスープ湯をたっぷりかけた。受け取ってからそれに酢醤油ときざみトンガラシを調味料としてかけ食べ始めた。普段でも食べなれたミン(麺)スープそのものの味であった。 やがて食事も終わり、あとどの位時間があるのかも知らず、食堂の横にあるマレーシア食品即売所に入る。沢山の食べ物、お菓子やドライフルーツの類が並んでいた。空調が効いているのでゆっくりと店内を回りキャンテ―ンに戻る。既に停車15分は過ぎていた、この間バスの往来が激しく半分のバスは入れ替わっていた様子であった。 南洋果物の女王マンゴスチン10個 RM3.00(90円)を買い、2-3個食べてから冷房の効いた車内に戻りみんなの戻りを待つ事にした。やがてちらほらと客が戻り始め、やがて若い連中の一段が戻って来た。白人の青年も何を食べたのか満足そうに戻ってきた。その後豊満な胸をしたジーンズの若い女性がゆっくりとバスに入って来た。全般的に無表情な中国人女性にしては微笑みをうかべ、何となくこちらを見ている様な気がした。女性は私の席の横に座った。そこは空席であった。変に思い彼女の顔を見た時だった。 「Mr. Satoでしょ?覚えている私を?」

(サリーの死)
全く記憶が無かった。「アーやっぱりぜんぜん覚えてないのね、ちょっとがっかりだわ」と言っていたずらっぽく笑った。その時バスの運転手が戻り客の数を数え始めた。どうやら第2運転手と交代した様子である。 「さっき佐藤さんじゃないかと、食べている前へ2回も歩いて行ったのよ、でも全然気がつかないので自信がなくなってしまって、それで遠くから見ていたら、全く同じバスに乗り込んだのでびっくりしてしまった。」 バスの運転手がいらだってホーンを数回短く鳴らし、少しバックを開始した。2人の客が慌てて戻ってきた。2人が乗り込むとバスは誘導者もなくバックでバスの列を離れて本道に向った。 「マチコラウンジを覚えている?」そうだ!確かにそんな所しか接点は無かった。「ごめん 名前は何だっけ?」「もう!ブレンダよ、覚えてくれてないの?」かすかにやせ気味の若い女の子の記憶が戻ってきた。「随分感じが違ってしまったね。」「あの頃は高校生だったから、でももう25歳なって、太ったから解らないかもねえ」 ブレンダはわずか1年半か2年そのラウンジに勤めたと言った。その後ポリテクニックに通い卒業後就職をした。貰った名刺を見ると今は日本を代表する家電メーカーの輸出担当の営業マンになっている。しかしブレンダは楽しい思い出としてマチコラウンジの勤めを愉快そうに話した。姉がユナイテッド航空のスチュアーデスで彼女とたまたま行ったマチコラウンジでアルバイトを始めた。日本人のお客が皆楽しくて、親にうそをついて働いたと言う。しかし最大の理由はマチコラウンジの経営者の人柄が好きだったらしい。勤めた後も頼まれるとボランチアでマチコラウンジの出かけていたと言った。 マチコラウンジの経営者は最初はシシリアと言う歌手であった。彼女は1988年にそのラウンジを開いた。しかしその場所はちょっと都心から外れていたのか、所謂ホステスがいないか少なかったのか、客の入りは直ぐに減りはじめ中高年の単身赴任者の常連だけでほそぼそと開店していた。私が遊んでいても他の客が入る事はめったになかった。そのシシリアが店を売ったのはたしか開店から10年後であった。その後それを買ったサリーとトニー言う彼女の兄と言う中年男の経営に変わった。驚いた事にそのサリーもシシリアに勝るとも劣らない素晴らしい歌手であった。シシリアがしっとりと情愛をこめて歌うのにたいし、サリーの歌声はしっかりとした音程を基礎に圧倒的な声量が魅力的だった。彼女のタイタニックのテーマ曲は客全員に熱狂的に愛された。 しかし2人ともラウンジ商売は初めての様子であった。 大概の土曜日の夜、2人はかつてのバンド仲間を呼んでジャズっぽいコンサートを行った。サリーはソロシンガーでトニーはギターを奏でた。「マチコ」はすでに客の足は遠のいて彼等にとっても経営は厳しかったのだろう。もしかして「マチコ」の経営を始めて満足する日々はそんなに無かったと容易に想像出来た。その不安を打ち消す様に陽気になまバンドの演奏が続いた。アルバイトの女性は、そう!このブレンダとアンジーと呼ばれた若い2人だけだった。 サリーが病に臥したのは去年の初めだったのだろう。病名は解らない。首筋からしびれがおき、徐々に体全体の筋肉が麻痺していったらしい。その話をしてくれた元の会社の後輩2人とその夜「マチコ」を訪ねた。今回初めてシンガポールに着いた日の夜であった。すっかり年老いた感じのトニーがたった1人がらんとした店の中にいた。私がシンガポールに戻った事を知って喜んでくれた。しかし店はまさに既に終焉した感じであった。客などとうに来なくなっていた。トニーは涙目の感じで言った「私は意地だけでこの店を続けている。採算などどうでもいいんだ。あの薄幸のサリーの命が続くかぎり私は大家に追い出されるまでこの店を続けるつもりだ。」私はトニーが大事にしていたフランスワインを所望した。2本を干して店を出た。もう深夜になっていた。トニーが再び飲もうと熱心に誘った。相槌をうちながら、これが最後だと決めていた。 「ママのサリーは死んだのよ」ブレンダは寂しく言った。「ある日から急に体が動かなくなって、それから1年、亡くなってしまったの。私はサリーママを知っている沢山の日本人にその事を伝えたのよ。でも佐藤さんには伝えるすべが無かったの。今日貴方と会えたのはサリーのおかげかしら。」ある日自分の携帯電話に入ったメッセージを思い出した。私は窓の方に顔を向け「トニーはどうしている?」と聞いた。「今もう判らないわ。」 やがてブレンダの顔を見たが、何故かそのことは言えなかった。それはトニーからだった。 「サリー 今日死す。」
~「サトさーん、ね!歌いましょう!」両肩を剥き出しにした青いワンピースの舞台衣装でサリーはカウンターの席までやって来て私の腕を自分の腕で巻いても、私は友人とふざけた話を止めなかった。サリーはやや強引に私をステージに連れていって、小さく「ごめんなさい」と言った。トニーがバンドの真中にいてウイスキーを飲みながら何か歌えと言う。客は常連の数人だけ。私はレパートリーの少ない英語の歌の歌詞を頭でなぞった。やがてトニーがギターを奏でハイ!と言う。 4人の伴奏が始まった。気後れした私はか細くサリーに1番の歌を頼む。睨むようなしぐさをしてからサリーの美しい歌声が狭い店内に流れた。やっぱり聞いている方がいい。
バスはマラッカの街の奥を過ぎた。クアランプールまで後1時間半位、時計を見ると11時を過ぎていた。もう追憶は終わりにしよう。
                               (続く)