火焔樹の下で(No-3)
2003年8月
佐藤之彦 於:Spore
「佐藤さん、仕事を興す事に年齢は関係ありません。40歳でも 50歳でも 60歳や70歳でも始めたいと思ったらどんどんやるべきなのです。ただ肝に入れておかなければならない事は、60歳以上の人や経営者にとって失敗してもやり直しが出来ないことなのです。60歳を過ぎての成功と失敗がその人の最終評価になるのです。」
シンガポール最大の繁華街であるオーチャード通りのビルの1室で、懐かしいイガ栗頭の精悍な顔から厳しい言葉が次から次と出て来た。中垣さん 多分60代後半。
15年以上も前、シャープの仕入れ先懇談会で彼を知った。シャープの日本本部から来た役員と現地会社MDの方針発表の最後には、マーケット価格の値下がりを受けた値引き要請が最早年中行事化して、納入者側がうんざりしていた頃である。質問はありませんかとの問いに、手も揚げず200人の最前列に座った人が「シャープさんは、なぜ値引きをするのですか?」と語尾を強めて発言した。中垣さんであった。その質問でその場の雰囲気が変わっていったと感じた。納入者側には要請と言っても、実質拒否が出来ない重苦しさがあったが、シャープの役員が苦笑しながら「相手が下げるからです」と素直に答えた時、仕方が無いなとの雰囲気が失笑と共に全体に広がっていった。
中垣さんは国立大の工学部を卒業しNECに入社、新技術を学ぶべくアメリカに派遣され、その後Sporeの駐在となってからスピンアウトして製造業を開業、アップルやマッキントッシュの委託生産請負を生業としながら、郷里長野にある積層基盤メーカー北陸電工のSpore企業の会長をも引き受けていた。それから時々中垣さんとも顔をあわせると挨拶する様になった。今回仕事を始めるに当り、当地の日本人とSpore社会に造詣の深い中垣さんの苦言を受けるために事務所を訪ねたのだった。今は自社をアメリカ企業に売却し北陸電工会長職も辞め、コンサルタント事務所で悠悠自適の感じであった。
「年に何人もの人がSporeで仕事をしたいと言って訪ねてきます。大きな需要が期待できるとか、製品が確かだとか、お金もある程度用意したとか、言ってきますが、殆どは1年も持たず、3年間仕事を継続できているのは100人に1人もいないんじゃないかなあ」
「本当に自分の仕事に自信があるならば、自分で銀行に言って事業説明したらいいのです。それでやりたい事の客観的な評価が出ます。身内や家族にぐちぐちいっているうちはだめなんです。佐藤さんのプランが正しければ、説得力があれば、銀行はお金もだしてくれるんですね。」
「シンガポールがいいとか、ここはASEANの中枢とかの程度の発想でここに来た人では、すぐ自分と仕事のつらさとに負けてしまうのです。」
そろそろ中垣さんの所を離れる時間となった時、
「佐藤さん、たった1つだけ。3年以上ここで自分の事業を続けている人にはっきりとした特徴があるんです。それは自分の仕事や製品に惚れ込んでいる人達です。この人達は決してへこたれません。例え苦境が何年でも頑張れるのです。まさに愛しているんですね。」
華やかなオーチャードの人ごみの中に戻った。地下鉄の駅まで歩きながら滴る汗をぬぐった。そこは相変わらず気温32度 湿度75%の世界であった。
やがて涼しい地下鉄車内のつり革につかまって不思議なえにしを考えていた。中垣さんは最後の言葉、自分の力量や企業を中途半端に信じているだけでは生き残れないと伝えたかったのだ。惚れ込むのだと、命がけで実行するのだ。そうしたら失敗も恐ろしくないと。
杉本さんと言う人の事を思った。ゴム製造会社の現地責任者であった彼は90年から95年頃自分の会社を作った。今杉本さんは喉頭がんで声帯を削除されてしまっていた。全く声の出ない彼をその会社を訪ね再会した。病院からシンガポールに1年ぶりで戻った彼はきれいな楷書体で書いたメモを私に渡した「僕はこれから本番です」。彼こそ中垣さんの言葉の具現者なのだろう。同じ歳の男の仕事への確かな愛を感じた。またまた私は人生を教えられていた。
(南国のお盆)
7月下旬、シンガポールのお盆月間が到来した。日本同様地獄と極楽の門が開き故人との往来可能期間となった様である。
シンガポールの中国人はこのお盆の風習を、彼らの祖父時代か19世紀末期の中国での風習をそのままこの地で純粋に守って来た様である。
我がアパートとモスクの間にある100m平方程の空き地には、駐車場と古い鉄筋アパートを撤去した平たい芝生の空間がある。ある土曜日トラックが1台やってくると、その芝生の上に見る見るうちに長い大きなテントを建てた。左右両端は赤と黄色の色に包まれた祭壇があり、その間の30mか40mは椅子とテーブルが用意されていた。夕方になるとお参りの人々が増えてくる。毎日単調な御詠歌の節回しで男女混声合唱団のテープがそのテントから流された。ある夕方御詠歌の歌がすっかり鼻についてきたが、逃れる事が出来ない。誰か文句を言う人もなさそうである。開けっ放し玄関や窓からメロデイーが熱と湿気を共にどんどん流れてくる。気が付くといつか自分もつられてハミングしていた。あわてて止めてから、なぜ自分が中国の御詠歌を口ずさむのか変に思えた。メロデイーを聞き直すとなんとも懐かしいメロデイーで私も何度かこの曲を聴いた記憶があると思った。子供時代や大人になってからの記憶を探してみた。その時である、かなりゆっくりであるが「手酌酒 演歌をききながら 愛してる これからも 解るよなあ酒よ」と中国語で唄っているのを知った。
それから、中国のお盆に対する神秘性が一気に薄れて行って、中国人のスケールなのかスタンダードなのかが全く日本人と違うと知らされた。
金曜日になった。正午、向えのモスクにマレー人が礼拝の為大挙してやってきた。この毒々しいまでに道教化したリアリズムの仏教祭典に、彼らはどんな風に対応するのか気になって観察してみた。するとマレー人は全員全く無視、もし私が彼らにどう思うかと聞いても「エ なんですか、何にもありません。見えません」と答えそうである。気が付くと中国人側も「マレー人?何処にいるの?」と無視、この国はイスラエルより遥かに民度が高いと思えた。
その夜から騒ぎは100倍も大きくなった。銅鑼と鐘で何にも聞こえない。TVも電話も駄目である。諦めてテントに行って見た。するとそこでは殺伐な神事の最中であった。沢山の裸電球の下で上半身裸の壮年の漢が祭壇に祈りながら無我の境地に入り、やがて蛮刀を口に舌先を切ってあふれた血を短冊状の紙に気合を入れながらパッパパッパと塗っていた。20枚位塗ると又祈祷に入った。その横に銅鑼や鐘を鳴らす人が5-6人並び、無我境地に誘う様に音をとぎらせまいと必死にたたいていた。血を塗った短冊はどうやら善男善女に配られる様子であった。
毒気に当てられ気後れしてその場をはなれて、テント内を歩きながら外を見ると、このテントの更に20m奥に仮設舞台があり、京劇の様な衣装で狂言が演じられていた。こちらもありったけボリュームを上げたスピーカーから、歌舞伎役者にも負けないほどの化粧で完全に顔を変えた女優2人がどなる様に会話をしているのだが、お客は10人位の小学生以下がほとんど、可愛いそうな位人気がなかった。
しばらく立ち見をしていると、インド人達が買物袋を下げて舞台の前の道をすたすた歩いて来た。そして通り過ぎた。どなる演者とすたすたインド人、やはりこのインド人に聞いても「エ、京劇?どこでやっているの?」と答えそうである。
やがて子供達の親達が迎えに来た。「スコールが来るよ、帰ろう」と話したのだろう、あっと言う間に観客は私を含め3人になった。やがて1塵の強風が吹くと大粒の雨がボタボタと音を立てて落ちてきた。突然舞台装置担当作業者が舞台の表に木の梯子をかけてとことこ舞台にあがり、雨対策を始めた。更に舞台奥から普段着の男女が3人梯子を降りて来た。1人の女性が演技中の2人に身振りで挨拶をした。舞台の演技者はこれだけ皆が雰囲気を台無しにしているのに全く意に解さない。平然と演技を続けていた。雷鳴が轟いた。
家まで20m、ずぶ濡れになった。夕立の様な豪雨に霞む舞台を見ると、まだ演技者は怯むことなく、しゃべり続けていた。真っ暗な中にぽつんと浮かぶ舞台はそこだけ中世の中国そのものに見えた。観客席の野っ原は闇に消えていた。
3階の部屋に戻るが銅鑼と鐘の音は変わらない。外を見ると雨止み待ちの人を含めてテントは満員となっていた。その向うモスクの入り口は灯りが煌々照り、正装したマレー人が雨宿りをしていた。彼らは絶対にテント方に目を向けなかった。午後10時が過ぎていた。
次の日曜日、テントは解体された。
本格的なお盆がその頃から始まった。このアパートの広場の夕方、沢山の人々が迎え火を燃やす。大体は横に10本 縦は2m位の間隔に松明ほどの線香と旗を立て、その前に祭壇を作り食べ物を並べ家族は1人1人祈祷を行う。そしてその横に赤茶に錆びたドラム缶があり、そこにあの世で使う紙幣を大量に燃やす。もうもうと煙がたちこめる。
この紙幣は亡者がご機嫌をそこねて人間に禍を与えない様にする為との事。少し日本とは異なる風習であった。
ある夕方8月の半ば、中元との垂れ幕が垂れ下がる下で、沢山の善男全女が送り火を行っていた。一番端にたった1人の老婦人が2本の蝋燭を交差させ、かがんだままじっと火をながめていた。
この公団住宅に住むと、ないはずの季節感が着実に風習として継承されていることが解る。8月27日長かったお盆の月が終わる。その3日前からスーパーに色とりどりの提灯が並んでいた。お盆が終わると「ランタン祭り」が始まる。月餅を味会う日本の中秋にまで続いていく季変わりの始まりの様である。
( 余白 )
突然ではありますが、私、俗名「ピッピー」と申します。
鳥類のインコ科の小桜インコに属しました。縁ありまして佐藤家の家鳥を10年勤め上げ、私儀、この7月24日天寿を完うしました。人類に例えますと90歳か100歳でしょうか?震災を除きますとほぼ淡白で平凡な年輪を重ね、この間もっぱら身勝手な飼主家の余興係りを毎日勤めてきました事も、最早楽しい過去のこととなりました。
新盆に当り、改めまして、生前来訪頂きました皆々様のご愛顧に厚く御礼申し上げますと共に、残念ながらお会い出来なかった皆々様も含め、僭越ですが天朝での噂でも、人間殿には更に試練が続きそうですので、どうぞご健勝にお過ごしできます様お祈りもうしあげます。
喧鳥院長寵蔦居士
亭主敬白