火焔樹の下で (No- 13)    

2005年3月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


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(5000円でジャカルタへ)
今年の初め頃から、私のインドネシア バタム島での若い協力者であるポンタスが頻りとジャカルタへ行こうと誘っていた。彼は新しいビジネスの供給元である韓国企業を私に見せてたがっていた。私の躊躇の最大は投資と効果、つまり成果が不確実なものに費やす費用がおしいのであった。ジャカルタまでの費用はざっと飛行機代がS$350-400で現地のホテル代(S$200)それに交通費と食費でその2人分約S$3000(20万円位)が二の足を踏ませていた。「Mr.佐藤 もしバタムからの飛行機ですとジャカルタまではS$75ですよ!」ポンタスが教えてくれた時唸ってしまった。およそ1000kmが僅か5000円弱 2人で何と1万円でジャカルタに行けると知って心が軽くなった。「私もジャカルタは5年ぶり、とてもMr.佐藤と2人ではジャカルタ空港からその企業まで行くのは不可能ですから、その企業に空港まで送り迎えしてもらいます。」すると後はホテル代位なものか、「よし、行ってみよう。でも日帰り出来ないかなあ?」「それは無理です。バタム―ジャカルタ間は1時間半でも、空港からジャカルタ市内を抜けるにも3時間から、渋滞が激しいと5時間かかることもありますから。」ならば1泊で行ってみるかとの気持ちに傾いた。

(バタム国際空港)
3月の第1週の金曜日早朝シンガポールからフェリーでバタムに向う。お得意廻りを午後5時までに切り上げ、ポンタスとバタム空港に向った。それまでバタムに空港があるとは知っていたが行くのは初めてであった。我々のタクシーは工業団地から僅か15分から20分の距離で空港のゲートをくぐった。直前までバタム空港などローカルの小型機専用のいわば椰子の木陰に滑走路が見え隠れし、しもた屋風の海の家風か、良くてもせいぜい田舎の駅舎の雰囲気を想像していたが、しかし敷地の入り口から空港建物まで1km位綺麗に手入れされた道を進むと、やがて見えて来たターミナルビルは横幅100m以上で3階建ての鉄筋コンクリートの堂堂たる建物のであった。「バタム国際空港」のマークを見ながらその正面に沿った3車線の一方通行の道をタクシーは搭乗口ロビーの前で停まった。 ビルの外でポンタスは人が来るからちょっと待っていてくれと言う。それでしげしげと各航空会社の事務所を眺めていると、インドネシアにはガルーダ航空以外にも色々な航空会社がある事を知った。「ここから中東諸国や南アジア諸国方面に、遠くは南アフリカまで飛行機が飛んでいます。インドネシア国内もスマトラ島やジャワ島の主な都市は当然、セレベス島やボルネオ島やバリや多くの島々にまで毎日便があり、特にジャカルタへは1日朝6時から5便の飛行機が出ています。」「ただインドネシアの国内航空運賃は変動性で、客が多いとジャカルタ便もS$400になることが普通になっていますが、S$75からS$100までが平均で、安い時にはS$50になります。」 やがてポロシャツ姿の男が歩いて来てポンタスと2言3言話をしてから、ズボンのポケットから折りたたんだ航空券を取り出し彼に渡した。ポンタスは私が前もって渡してあったルピア紙幣の束の半分程を数えて男に手渡した。男は私の顔を見てにこっと笑いルピア紙幣の束を同じポケットに数えもせず突っ込んでから離れていった。その仕草を見て、男は数えるのが面倒なのか、あるいは1枚位多くても少なくてもどうでもいいのかと思わずにはいられなかった。 ポンタスは1枚のチケットを私に渡した。「領収書は?」「ありません。そのチケットに書かれた金額でいいでしょ?」こんなところが個人商店の気楽さか、私もあきらめてチケットの金額を見ると7桁の数字に税金があり、何回見ても金額がでか過ぎ頭に入らない。 頭の中でS$に直してみたり、円に直してみたりしてもよく解らない。
「実際は幾ら渡したの?」「百万ルピアです。」「ちょっと高いじゃないか?」「あの男がガルーダ便に変えたと言うから、それで了解したのです。やっぱりその方が他の航空会社より安全ですから。」 我々普通の日本人にはガルーダでもあまり乗る気はしないのだが、インドネシア人ではガルーダが最も信頼性が高いのは当然なのだろ。 午後6時50分発の飛行機に搭乗した。座席に座ってからまざまざとバタム空港の不思議さを感じた。まずチケットを登場券に変える時人物確認が無かった。手荷物の検査はあったのかも記憶になかった。更に登場口に行くまでのビル内には国際線と国内線との仕切りの様なものもなさそうで、我々は免税店が沢山並ぶビル内を歩いた。しかも旅行客も少なくないのに午後6時過ぎでレストランやその多くの店は閉店の準備をしていた。アメリカが必死になってテロ対策をやっていてもここではまるでバスか汽車に乗るのと同じ気楽さだなあと思いつつも食事とる気にもならず、仕舞いかけの店を数店廻り缶ビールを出す店を見つけ飲んでいたら、廻りの客はタバコをぷかぷか吸っている。禁煙だと思うのだが誰も気にする風ではなかった。

(機内にて)
飛行機が飛び上がり東に進むと外はすぐに真っ暗になった。更にバタム灯りを離れると外の下には全く光が無くなった。機内は週末を向えジャカルタに行くのか戻る乗客でほぼ満席の様子であった。やがて機内食サービスが出たが、しかし我々はこれからジャカルタで会う初めての人と食事をするのだろうと思い機内食を差し控える事にした。お茶を飲みながらポンタスが少し気遣い気味に言った。「Mr.佐藤、帰りは1人でバタムに帰ってもらえませんか?」「OK、でもジャカルタ空港までは届けてくれるのだろうね」「勿論です。実はジャカルタに弟がいて大学生なのです。」ポンタスの兄弟は11人、ポンタス自身は上から3番目でジャカルタの弟が11番目の末っ子だとういう。ポンタスの両親はさして裕福ではなかったが、11人の子供全員を大学に進学させたと言う。「ところが11番目が兄弟中1番優秀でして国立ジャカルタ大学に政府特待生として入学出来ました。学費は全て免除で住まいも個室を与えられ、毎月の手当ても政府から出ています。その弟も卒業する時期になりまして、5年も会っていませんから、彼の生活態度を見るのと今後の針路相談を聞いてやろうと思っているのです。」ポンタスと15歳はなれた弟は経済専攻で将来はアメリカかオーストラリアに留学を希望していると言う。そしてその後は政府官僚の道を取り合えずは進まなければならない。それが政府特待生の唯一絶対の条件であるらしい。でも弟の本音はそのまま西洋の世界で生きて行きたいのらしい。それがインドネシアンクリスチャンのしかもエリートのジレンマなのだろう。ポンタスはその弟の宿舎で土日を過ごしバタムには月曜日に戻ると言う。「それに日曜日の礼拝をしてから、ジャカルタで安いファクシミリを買いたと思っています。バタムは高いものしかありませんので。」ポンタス君は私の金で弟に会い、ファックスを買って帰りたかったのだろうかと勘ぐってしまう。 しかしポンタスの弟の将来は気になる話である。
「まあ、弟はインドネシアには必ず戻らなければなりせん。弟の学費は税金で払ってもらっていますから。でも戻って来たら大学に戻って学者の道を歩みながら、欧米に戻る機会があったら、そっちに行くのでしょうね。権力機構ではクリスチャンは不利ですからね。」 私の様な多少インドネシアとかかわりを持つ者にとって、ポンタスの弟の様な人間こそこの国に残って国の建設に邁進してほしいと切実に思ってしまう。石油を始め地球の鉱物資源のほとんどを持ち、豊な漁場や森林を持つこの国の貧しさは、明らかに社会全体を覆う不公平と腐敗にあると思わざるを得ない。この国に投資した日本の大手企業は今、未練無くぽいと工場を棄ててインドネシアを出て行くケースに枚挙のいとまもない。中国布陣をにらんでであろうが、インドネシアの行政の不誠実と不道徳に嫌気がさしたのが本音である。 私の顧客の友人が吐き棄てる様に言ったのを思い出す。「佐藤さん、もう私は頭に来て仕方がありません。この国が突然課税の見直しを1996年に遡って去年までの税金を請求してきたんです。うちの企業は赤字ですよ、それなのに日本円相当で1億円を納付しろと言うのです。 しかもそのうち5千万円ほどは一昨年1回払ったんですよ!不承不承ですが、そしてようやくその税金を返してもらったばかりなんですよ!それなのに又同じ年度で今度は倍の1億円ですよ。」
「払わねえと突っ返したら、税務署の高官がわざわざバタムまで来て協議しようと言うんです。
なんじゃいなと思って高官が泊まっているホテルまで出向いたんですが、するとその男が面と向って、1億円を納税したくなかったら俺にS$100,000払えといいやがったんです。日本円7百万円ですよ!ふざけるな!と言い返して席を蹴飛ばして帰ってきたんですよ。」「もうこうなったら裁判をしてでも払わないと決めて直ぐ異議申し立ての手続しました。それでも払えと言うなら、バタムを引き払いベトナムでもタイにでも移します。冗談じゃネイ。バタムに出て来たメリットな無くなってしまいますよ」「この工業団地でも大手を含みでもう3社位が撤退を決めましたでしょ、皆結局同じなんですよ。アホらしくなったんです。」「でも結局1番困るのはインドネシア国民じゃないですか、我々は逃げ出せますが、従業員や家族や関連産業とかタクシーうんちゃんや屋台のおっさんどうなるのですか。ここバタムは製造業しかありません。しかも製造業は皆ここでは24時間で製造していますから、普通の3倍の従業員を雇っています。3社や4社と言っても直接だけでも5千人位が職を失ってしまうのですよ。それでもいいんですかね。この国は。」 だからなのだろうか、ポンタスの弟の事を想像する、彼にあるものは単に欧米へのあこがれや胸を張ってクリスチャンの生活をしたいと思うことではないであろう。ポンタス同様インドネシアに対する憎愛に格闘しているのだろう。 将来性豊な青年はこの国の社会―それは準備なくいきなり農耕から近代工業国家になりなさいと言われた結果としても―あまりにも酷い貧富の差や社会的特権の偏中とかの負の効果が不道徳や不正となって、あからさまに社会を破壊しようとしているインドネシア社会に対して破壊と迎合するのか、立ち向かうのか、あるいは逃避になるのか、最初の決断が必要になったのだろう。 「私ならもしこの国を出れるチャンスがあれば、すぐ家族全員を連れてインドネシアをはなれますね。インドネシアには商売で旅行するだけにします。商売チャンスだけは無くなりません。何と言っても石油と2億の人口ですからね。」「ポンタス そのインドネシアが去年ガソリン輸入国なったそうじゃないか、知っている?」「そうなのですよ。だから本当に3月1日からガソリン代が30%も値上がりしてしまい、皆大打撃です。各地で値上げ反対の街頭デモが頻発しています。便乗値上げが酷いのでルピアの価値が又下がってしまっています。」 インドネシア政府は自動車の普及予測を低く押さえていたらしい。ところが工業化政策はモータリゼーションを加速させ、国家予算約8兆円の内ガソリンの価格補填が国家予算の10%、つまり8千億円に膨れ上がってしまい他の国家プロジェクトが出来なくなってしまった。 新しく大統領に就任したユドヨノ氏は直ちにガソリン補填を打ち切った。そして弱者救済や社会保険にその分を回したいと表明している。
インドネシア人はあまり政府の政策を信用していない。その福祉予算が国民に還元されると信じていない。たとえ予算が執行されても途中の段階で、あの税務署高官の様な人々が無数にいて途中で無くなってしまうと思っている。 やがて飛行機はジャカルタの空に入り徐々に高度を下げて行った。下を見ると無数の家の影が見えその家々からか細い光が漏れていた。私がジャカルタにくるのは10年ぶりだろうか? 私は話題を変えた。
「ポンタス この金はどうする?君から渡すか?」私はその韓国企業から1ヶ月前に仕入れたS$700ほどの代金を現金で持って来ていた。
3月末に振り込もうと思っていたがポンタスから振込み手数料がもったいないから直接現金で渡したらと言われていた。 「OK 私が預かり払いますが、これは多分そのまま私がもらうお金になります。」又変なことをいい始めたポンタスの顔をまじまじと見つめ直した。この男はいったいどの目的で私をジャカルタに誘ったのだろうか?    (続く)