火焔樹の下で (No- 12)    

2005年1月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


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(津波の後)
インドネシア アチェ州の惨状を映すTV報道で小高い住宅の上に漁船が乗っかっているの見た時、ああこれが「ノアの箱舟」の世界なのだと感じた。 旧約聖書の「ノアの箱舟」は当時から更に3000年ほど前、大西洋に落下した巨大隕石により起きた大洪水が人々の記憶や伝承として残っていた本当の話であった、との本を昔読んだことを思い出した。その津波がジブラルタル海峡を越えて、地中海の東の隅まで届いたのであるから、今回の地震よりはるかに強烈な津波であったはずである。その著者は大西洋の対岸であるアメリカ大陸でアメリカインデアンやインカの伝承に洪水の話が無いか丹念に調べた結果、ほぼ同時期にやはり聖書同様の大きな洪水の話が残っていたと発見したらしい。そして中国でも異常潮位が記録として残っているとの事であった。つまり原因不明の洪水でその要因は誰も知らないはるか大西洋の中であったから、津波と言う地球の営みが出す二次災害の伝承がなかったのだろう。 その頃日本はまだ縄文時代であったはずである。多分少しずつ少しずつ中国の言葉と文明が届き始めたかもしれない。やがてその中国から届いた言葉の1つに津と言う言葉があった。津の意味は港や港町の事で、その港とは防波堤が完備された船泊りだった。多分漁船や商船の群れが外洋から押寄せる荒波から逃れて安全に係留されていたのだろ。だがその波よけを乗り越えて津の中まで届いた波があった。被害は甚大であった。それから人々はその波を津波と名付けたのだろう。いまや不幸な国際語になってしまった。 2005年正月明けにバタム島に行き無事ポンタスとの再会を果たした。
彼の故郷メダンは今尚余震を感じる程度で特に深刻な被害は無かったとのこと。「津波の被害の全体は まだ誰にも解らないはずです。」20万人の犠牲者を伝える報道にポンタスは放心した様に言った。 私はその日、シンガポール側のフェリーの待合所で見た小さな変化をポンタスに伝えた。「フェリーの乗客が少し変わって来たみたいだね。何故なら、白人が多いのだがバタムから被災地アチェに向う人を見受けるね。多分ボランテイアの人々だね。」ポンタス「そう、毎日報道されているが、シンガポールからバタム、そしてバタムからは飛行機で西スマトラへ人々が向っています。昨日もTVで伝えたが、沢山の日本人がバタムに来てアチェに行きました。」このシンガポールとバタムと言うインドネシアの小島とを結ぶ、言わば盲腸の様なフェリールートが実はインドネシアの各地に広がっていく海の玄関であると初めて実感させられた。およそ1時間弱の海の道は今後共災害救援ボランテイアに対する世界からアチェへの道として残るのだろうと感じた。 ところで津波後もバタムの島は一見何も変化が無かった。圧倒的な雇用規模の製造業では多少アチェから来ている従業員の家族に被害があっても、1社に数人程度で生産に影響も無く、従業員も穏やかであった。ただ面会した日本人のマネージャーは皆異口同音の悲鳴をあげていた。「インドネシア中のありとあらゆるところから寄付要請が来ているのですよ。毎日毎日。」 「あの日、日曜日ですよね。
私達は何時も通りゴルフをしていましたら、急に携帯電話がなりだし、電話を取ると日本の本社の人からで、お前地震大丈夫か?と聞かれて、何処の地震ですかと聞きなおすと、インドネシアだようと言う。インドネシアと言っても広いですからどこですかと更に聞き直すと、スマトラという。」「そのスマトラだって日本より大きいんじゃない?」「バタムがインドネシアと覚えてくれていた方が嬉しいね。」 その夜、久々にバタムの日本人と食事をした。するとバタムの人々が魚を食べなくなったとの話を聞いた。バタムやインドネシア人には数万人に及ぶ行方不明者の体を啄ばむ魚のイメージが強く、とても食べる気がしないらしい。そう言えばポンタスも昼食の時、「秋刀魚はどこで取れるのか?」と、さりげなく聞いて来た。「日本の北の海だ」と教えると、彼も「じゃあ 僕も秋刀魚にする」と言った。 なじみのカラオケで働く女性の父親が津波で行方不明になり、母親がアチェまで行って探した結果数日後に発見できたとの話が出た。しばらくしてA氏がぽつんと言った。「Bさん、その子の母親がアチェに行った費用はその子が出したのでしょ?」「そうだと思いますよ。」「だったら、変な話、彼女にとって気持ちの半分位は扶養家族が1人減ってほっとしているじゃないですか?」「そう言えば津波のニュースを見たり聞いたりするのはいやな様子ですが、そんなに悲しがってもいませんでしたね。」 「バタムで働くカラオケの女性は親と子供の扶養のためですよ。大部分は。多分どちらかがいなければバタムに来る必要も無かったはずです。」

(ハリラヤ ハッジ)
バタムの風景に突然牛が目につき始めた。ドライブ中道路脇の雑草の中に、藁葺き屋根の牛小屋があり、その中に5―6頭の牛が1本の丸太にくくり付けられていた。そんな風景が次から次と現れた。「やたらに牛と牛小屋が増えたねえ」ポンタスは明確に答えた。「あの牛達はイスラム教徒がハリラヤ ハッジの日に屠殺し食べるためですよ。」 牛はイスラム教の作法によって、お祓いの後時間 場所 方向きめられ生贄となる。 一般に犠牲祭と呼ばれるイスラム教徒の祭日は断食明けから1ヶ月ほど後にやって来る。インドネシアやマレーシアで「ハリラヤ ハッジ」と呼ばれているこの祭日は、多分アラビア語かその名残りなのだろう。ハリラヤは英語のハレルヤと同根の言葉でユダヤ教かヘブライ語の「エホバを讃えよ!」との意味のはずである。ハッジの語源はともかく、インドネシアやマレーシアではメッカに巡礼した人の称号でその偉業と信心の深さを讃える日が「ハリラヤ ハッジ」である。昔の巡礼がインドネシアから船で6ヶ月かけて行なわれた死の危険と隣り合わせの旅だったのに比べ、今は往復飛行機で済ませるから、その苦労は比較にならないほどであるが、インドネシアのイスラム教徒にとって一生に1度は行きたいメッカ詣でである事に変わりはなかった。 今年のハリラヤ ハッジのお祝いは津波の影響で控えめにおこなわれるとの事であるが、でも生贄の牛の数は変わらないらしい。ポンタスは言う。「あの牛のほとんどは、イスラム教徒の金持や有力者の寄付なのです。どうしてか解りますか?」イスラム教徒の寄付や施しはその経典に定められた功徳のはずであった。だからその牛の肉はイスラム教徒なら誰でもただでもらえる。牛を食べることが重要ではなく、牛を施し皆に楽しんでもらう事が重要なはずである。 「そうなのですが、もう1つイスラムの経典には、寄付や施しをするとその額や規模によって、寄付した人の過去に犯した罪が寄付同等分と相殺されるとあるからです。ですから皆寄付をするのです。」そう言えば預言者モハメッドが人々に断食を勧めた時「断食をすると、罪1等が減じられる」言ったと伝えられている。このへんの「何々すれば、何々が与え(許す)られる」と言う反対給付の発想がイスラム教の特徴なのだろうか。「背徳者(外国人)を殺すと、天国へ行ける」今や狂信派の合言葉である。 もっとも断食そのものはユダヤ教からの借用の様である。 ポンタスは続けた。「だから,政府の人間や警察官 税関員 軍人がこぞって牛の寄付をするのです。
彼らは身に覚えがあり、例え全部の罪を帳消しには出来なくても、せめて去年1年間分の罪だけでも神様に許してもらえればいい。そうすればまた今年1年せっせと汚職に精を出して、蓄財をするつもりなのですよ。」諦める様に笑い「免罪符ですよ。だからこの国の汚職は無くならないのですよ。」 「地震の被災者を救援する事は、イスラム教徒として一生分の罪を帳消し出来るチャンスと思っている人がいて、例え自分の財産の大部分は残しておいて、後は誰かに肩代わりさせても功徳の効用は同じだと思っています。しかし大部分のインドネシア人は貧しくて自分の代行は不可能です。そこで目に付いたのが外国企業で、しかも日本企業です。日本人と日本企業はお金持の代表みたいに思っておりますから、そこからいくら寄付を取っても非難は無く、それどころか褒められ、神に認められ しかも当の日本人は痛くも痒くもない。もしかして総合評価で天国行きが可能になるかもしれない。皆そう思っています。」 外国進出の企業はその地域の人々、そして気候や慣習や宗教との共存無しに存続は不可能である。

(ハリラヤ ハッジ余話―シンガポール)
1月下旬になると、シンガポールは日本の年末風景に似てくる。長い雨季も終わりになり始め、晴天か薄曇りで気温も30度を常時超える日々になって来た。今年の中国旧正月は2月9日で、まさに歳末商戦真っ只中になっている。古い中国の伝承を残すのか、小粒な実が沢山になった柑橘類の鉢が店先に沢山並び、花も小粒な花が沢山ある方が好まれる様子である。何故か普段は見かけない菊の花が売られている。中国人は公私ともその準備に大忙しとなるがマレー人は全く関係が無かった。 1月21日はハリラヤ ハッジの当日 インドネシアもシンガポールも休日である。我が家の前のモスクには、その壁沿いに衣類店をはじめ雑貨が並べられていた。
バザールなのだろう。モスク周辺は何となく人のざわつきがいつもより多い程度で特に変化は無かった。 翌土曜日、気が付くとモスクと我が家の前の駐車場と広場に沢山のイスラム教徒が集まっていた。午後から夕方にかけて数百人位の群集になっていた。子供達が遊び回り、大人達はくつろいでいた。夜、人は益々増え、光の少ない広場に人々の影だけが無数に見えた。 だいたいイスラムの祝祭日の催しは夜、モスク又はモスクの周りでお祈りと施しが中心になっていそうである。一方中国は昼間、人ごみの多い商店街や歓楽地で祝いが催される。 その夜モスクの壁は赤々と光がともり、人々がさかんに何かをしていた。やがて11時を過ぎ人々が数十人規模になったが、モスクの壁の光の中での動きは変わらなかった。私はとうとう我慢出来なくなってモスクまで何をしているのか見に行った。モスクに1歩1歩近づくたびに濃い匂いが漂って来た。異様な匂いだった。モスクの壁は小さな芝生の1.5mほどの小山の向うにあり、そこで何かが行なわれていた。小山に登って半地下の様な壁沿いの通路をのぞくと、異様な光景だった。数人の男達がナイフを握っていた。すぐに10頭以上の羊が目に入ってきた。その羊達は既にイスラム教のお祓いを受けた後の様子で、次から次1匹づつ喉を引き裂かれて殺されていった。小さな悲鳴、断末魔の痙攣、あふれ出る血、一瞬に来る死の静寂。黙々と作業する男達。黒衣のイスラムの聖職者は威厳をもって羊達を見守っていた。「喜べ、羊達 天国へ召されたぞ」そう確信していると容易に理解出来る顔つきであった。そこには宗教の持つ残虐性と正当性が凝縮された様に感じたが、直ぐにこの風景は毎日地球上の全ての食肉処理場の中で進められている経済活動と同じなのだとも思った。私達はその現場を知らずそれを食べている。この羊達が特別なのでなく、羊としてごく普通の生涯で、ただ最後にイスラム教徒にされただけなのか?その間も幸運な羊達がどんどん天国に飛んで行った。確かに現象は殺伐だが私はこの場所と関係の無い人間だった。小山を下って戻ると、広場にはその羊の肉をバケツに入れた人が自分の車に運ぶ途中であった。満足そうな顔に家族に対する責任を果たす父親の顔を感じた。                               
 おわり