火焔樹の下で (No- 11)    

2004年12月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


「No. 1」「No. 2」「No. 3」「No. 4」 「No. 5」「No. 6」「No. 7」「No. 8」 「No. 9」「No. 10」「No. 12」「No. 13」 「No. 14」


(The TSUNAMI)
2004年12月31日 降り始めて3日目も朝から雨が続いていた。ここ数日私は1人の男との連絡を取り続けている。名前はポンタス 西スマトラのメダン市出身のインドネシア人 バタムでの片腕となってくれていた。12月24日の金曜日、私にとって今年最後のバタム出張時、私達は何時もの様に彼の車で顧客周りをし、その後2人でホテルのバアーでビール飲んだ時、彼はずっと空席待ちだったメダン行きの飛行機便がやっと取れたと喜んでいた。 そして彼がバタムからメダンに飛んだ26日の朝、私はシンガポールの自宅でスマトラ島西北部での地震のニュースを知った。でも最初はそれがどんな被害であるのかは定かでなかった。それから何時間後であったろうか、TVのブラウン管の上に「TSUNAMI」の文字を偶然見た。たしかタイのブッケットに津波が押し寄せて犠牲者と被害が出ていると伝えた。津波が国際語とはと思ったが、しかしその時もそのまま買物の用事で外に出てしまった。夜8時過ぎに家に戻ると、事態は一変し未曾有の大災害がTVに映し出されていた。ふとポンタスはどうだったのだろうと思った。メダンは同じスマトラ島でも震源地から大分離れており津波もなさそうであった。念のためと思い彼の携帯電話にかけてみた。しかし電話局なのかインドネシア語の録音テープの案内が入るだけで彼には繫がらなかった。 27日以降も長雨は続き、彼の携帯電話もつながらず同じ状態が大晦日まで続いていた。この日シンガポールの若き首相は何度もTVに出て、英語放送では英語で中国語放送では中国語でシンガポール国籍の行方不明者や犠牲者の状況を説明していた。同国の犠牲者は7名20名弱が行方不明 220名強と連絡が取れていないと説明していた。写し出される悲劇の海岸はシンガポールと違いなぜか快晴で真っ青な海ばかり、既にマラッカ海峡のインド洋側の雨季は終わったのだろうかと、そちらのほうも気にかかっていた。沿岸10カ国の犠牲者は既に12万人に達したと伝え、TVは犠牲者の遺体なのだろうか、黒いビニール袋の大きな物体がトラックの荷台から浅く掘った大地に幾つも投げ入れられるシーンを写していた。しかし肝心のインドネシアの情報が少ない。インドネシアの新大統領が災害地の近くのメダンに行き陣頭指揮を取っているらしい。ただ災害の事態掌握はいつまでたっても初期段階にしかなさそうであった。 「佐藤さん メダンの人口は3百万人 インドネシアではジャカルタ スラバヤに次ぐ第3の大都市です。面積も広いし、日系企業も進出し、街中に日本食レストランが沢山あります。」
「スマトラの人々は必ずしも現在の政府に満足はしておりません。その根本原因はジャワ人優先だからです。メダンに行くと解ります。豊な自然と反比例して、インフラの不足、学校 病院 産業が足りないのです。」たしかポンタスはメダンのことをそう説明してくれていた。

(S氏)
彼との接点に1人の日本人がいる。S氏、50歳台後半、樹脂モールド関連のエキスパートで成型と金型には素晴らしい知識をもっている。後日彼のこともじっくりと書いてみたいと思うほど不思議な人物である。彼は私同様1人で仕事をしていて、多分私より更に複雑な人生を送っている様子の人であった。そのS氏と私は今年の初め言わば弱者同盟の様な関係を作って一緒に仕事しようとしていた。その時S氏からバタムで頼りになる男としてポンタスを紹介してくれた。 そしてポンタスと私達は相談の上9月に退職するポンタスをS氏と費用や給与を折半で持ち合って共同で使う事とした。いわば非常にゆるやかな雇用関係を考えた。 ところがS氏の最大の問題点は不確実性であった。ポンタスに対する雇用関係を実行しないのであった。いやそれ以前にS氏との連絡が途絶してしまうことが多かった。それでもしばらくするとS氏から日本に行っていたとか中国に行っていたとの事後連絡がはいる。そして「来週水曜日に会いましょう」と言う。しかし絶対と言っていいほどその日には現れず、そう言う日々は常に彼の形態電話はつながらない。又10日か2週間後に連絡が入る。「いや、急にベトナムに行かなければならなくなってね」。そうした状態が日常的に発生した。ポンタスならず、沢山の人がS氏を探し回っていた。すでにS氏はバタム自体にも現れる回数が減っていて1ヶ月1度も現れないこともあった。どうやらS氏は私やポンタスと交わした約束を忘れてはいないと思うのだが履行する気はなさそうであった。と言うとS氏に怒られそうだが、要はS氏の頭の中で色々なことが同時進行していて優先順位がしょっちゅう変わるらしい。S氏に言ってやむなく私はS氏の分までポンタスの費用を負担する事にした。だからポンタスも心ならずもかどうか、9月からほぼ毎週私のバタム出張時現地で私を迎えくれることとなった。それどころか納期の問題が逼迫したり、私が日本などに行って不在時、シンガポールに何度も足を運んで仕入れ先と顧客の間を取り結んでくれていた。段々無くてはならない存在になっていった。 そして彼の従来の仕事を私の会社で販売したいと言ってきた。与信力が若干日本人である私が勝ることと、バタム地方政府が島内取り引きに付加価値税を導入したためらしい。私達の顧客はフリートレードゾーンにある日系企業であるため、シンガポール企業からの輸入には付加価値税が免除されていて5%ほどのお金がセーブできるためであった。 ポンタスはバタムで2度勤めた。最初はトムソンと言うフランス系の電子部品メーカーで工場の管理部門にいた。
しかしトムソンが製造の主力を中国に移した時リストラされた。2度目はシンガポール人が経営する金型製作の工場で営業担当した。その初期S氏もその会社とレップ(営業)契約していて知り合ったらしい。2年契約の雇用期間ポンタスに言わせるとその会社は実に不誠実であったらしい。固定給のみで、最初に約束したボーナスもコミッションも残業代も結局1回も払ってもらえなかったとの事であった。それで雇用関係が切れる時、成功した友人に頼んで照明機器関係の代理店を始め様として、もう少し何か取り扱い出来るものを探していたとき、私と知り合ったのであった。

(クリスチャン)
インドネシアは世界最大のイスラム国家で国民の大半がイスラム教徒であるが、ポンタスはキリスト教徒である。それも敬虔な教徒で、食事の前必ず両手を肩幅の広さでテーブルの端に接触するかしないかに置き、頭をたれ目をつぶり短く祈ってから食べ始めた。 ことしの10月インドネシアのクリスチャンの会合にバタムを代表して出席もしている。 「インドネシアのクリスチャンは少数派で、しかも年々イスラム教徒の我々を見る目が厳しくなってきました。」「しかしインドネシアから外国に行くと、全てのインドネシア人はイスラム教徒とみなされます。シンガポールに行くと時にはタクシーの運転手から、何でお前達はテロするのか?と言われ、自分はクリスチャンだと言うと、バックミラーでじっとこっちの顔を見られてしまいます。」 インドネシア2億人の人口でインドネシア華僑の中国人500万人は非イスラム教徒と見分けてもらえるが、インド人になるとイスラムとヒンズーが混在しているしインドネシア人と見分けが難しい。ましてや土着のインドネシア人は100%イスラム教徒と皆認識されてしまう。「今イスラムとキリストの教徒が対立関係にあると信じるインドネシア人が多くなり、インドネシア国内でキリスト教徒と見られると、必ずしも安全ではなくなってしまいました」「それに政府や政治に非イスラム教徒の参加は厳しく、官僚や軍でも非イスラム教徒の出世は不可能に近い有様です。」「教育も公立学校はイスラム偏重ですから、キリスト教徒は私立学校にしか入れません。教育費もばかになりません。」 ポンタスには2人の小学生の子供がいる。 24日はクリスマスイブで25日はクリスマス本番「クリスチャンにとってクリスマスだけは特別な日なのです。
私達はイブの夕方と夜教会に出かけお祈りをします。でも今年は警察の警戒がとても厳しくて、人々は何一つ教会に持って入れません。教会内でテロが起きることを警戒しています」「既に12月になって、ジャワ海のある島の教会で爆発事件があり、以降もの凄く教会への出入りが厳重になっています。」 バタム島人口は60万人とも80万人とも言われているが、意外にクリスチャンの人口が多いと言う。ここ10年間で人口が急増したバタムに土地っ子など殆どいない。いるのはインドネシア各地からの出稼ぎだけである。地域の関係でスマトラからの出稼ぎが多く、その西部の大都市メダンはキリスト教徒がインドネシア中で最も多い街である。・#12461;リスト教徒・#12392;言うと・#12513;ダンから来たのか?・#32862;かれ、・#12513;ダンから来た・#35328;うと・#12463;リスチャンか?・#12392;言われるほど密接である。バタム島にも10箇所位教会があるらしい。 ポンタスはインドネシアと言う国家に複雑な思いを持っている。インドネシアの外からのインドネシアに対する批判や悪い噂には、不快感を隠さない一方、行政特に特権や癒着や賄賂が日常化した風土には絶望していた。特に長く続いたスハルト軍政に嫌悪感が酷く、その為か最近行われた大統領選挙でも、有能か無能かよりも軍籍経験もつユドヨノ氏よりメガワテイ前大統領を支持していた。「佐藤さん 私は多少なり生活が安定する様になったら、子供達をシンガポールの学校に行かせたいのです。そのほうが子供の将来、特にクリスチャンであるインドネシア人にとって沢山の選択が可能になりますからね。」 そのポンタスの妻と2人の子供は12月の中旬、メダンに行ってしまった。妻の母親が重病なので妻は看病に戻ったとの事。ポンタスはクリスマス休暇が始まる前20日頃から、自分もメダンに戻りクリスマスを親族と家族一同で祝う予定にしていた。しかし、メダン行きの飛行機便は20日以降正月まで満席だった。彼は辛抱強くキャンセル待ちを続けていた。シンガポールからもメダン行きの飛行機は出ている。ちなみに23日24日の便も空席があった。しかしバタム―メダン間がおよそS$100なのに、ほぼ同じ距離同じ時間を費やすシンガポール―メダン間の料金はS$400弱もした。 「佐藤さん 今は我慢と努力の時ですね、お互いに。ああそれと今度バタムに来たら今度ブタ肉料理を食べましょう。
我が家は皆ブタ肉が大好きなのです。」ポンタスはそう言ってフェリー乗り場で別れた。(バタムに豚肉料理を出す店があるのだろうか?)

(2004年の年越し)
ジェイソン チャンは30歳代後半、中国系シンガポール人 実業家で私にとって1番新しい知人。但しジェイソンは友人として私を遇してくれていた。12月の27日ごろ「大晦日は皆でバーベキューをやりたいので参加してくれ」と電話で誘われた。特に何の予定も無いのが最近の生活パターンで、遊びは常に先着優先である。もっとも誘いがダブル事などほとんど無い。31日午後3時ごろジェイソンの会社に勤める福久君が迎えに来てくれた。ジェイソンと同年齢でシンガポール人の奥さんと2人暮らしである。 「雨がやみませんねえ」「こんな天気でバーベキュー出来るの?」「私もよく解らないのですが、ジェイソンがパシル パンジャン(シンガポールの最東端にある地名 空港のほぼ真北)のコテージを3部屋借りて3日間ぶっ続けで飲むと言っていましたよ」「彼の家族は?」「一緒のはずです。」「じゃあ彼も乱れないかもね」「だと思うんですよね」「でも僕は今日中でいいよね。」「ゲストは今日中に僕が送り届けることになっていますからご安心下さい」「ゲストは多い?」「いや佐藤さんと例の福田さんと彼女の旦那のシンガポーリアンだけです」「福さん 2泊とも付き合うの?」「私も逃げ出したいのですが、今夜はだめでしょう。明日帰ります。絶対!」 小雨が止んだり降ったりするパシル パンジャンに着いた。そこは一大アミュジング センターになっていた。大きな野外駐車場に隣接して色々な室内遊戯設備がある建物があり、そこを抜けるとテント張りのイベント会場があり、更にその裏手に大きなプールが見えた。どこも非常に沢山の家族連れで混雑していた。私達2人は直ぐに迷子になってしまった。やがて迎いのジェイソンのスタッフが迎えに来てくれた。フイリピン人の若者でジェイソンがフィリピン市場を意識しての先行投資で採用したとの事。彼は新婚ほやほやで最近マニラから連れて来た奥さんがぴったりと寄り添っていた。 その建物を抜けるとコテージに通じるゲートがあり有料となっていた。前もって用意してあった入場券を係員に渡すと左手首に透明のスタンプを押された。これで今日1日出入りが可能だとの事であった。何軒もあるコテージはバーベキューの材料を抱えた人々がぞろぞろ歩いていた。コテージの庭にはコンクリート製のバーベキュー台と長椅子が順序よく並んでいた。すでに料理を始めているグールプも数組いた。我々はコテージの2階にあるジェイソンの部屋を訪ねた。2階の通路には5―6人の彼のスタッフと数人の奥さん連中が立って思い思いの格好でくつろいでいた。
小学生位と幼児達がドア―からこちらをのぞいていた。やがてジェーソンが半パン姿で現れ、1番手前の部屋に案内してくれた。そこだけ喫煙ルームにしていた。「佐藤さん 私はラッキーだったですよ。クリスマスの3連休で実は皆でペナンに行く予定にしていたのですが、どうしても部屋が3つ取れなかったで諦めたのです。そしたらTunamiでしょ!行かなくてよかった。ねえ福さん。」我々4人位の男達はツインベットに座りおしゃべりを始めた。皆盛んにタバコを吸い始めた。 「シンガポールも今年はニューイヤーイブの行事は全て中止、TVも特別番組を全部止めたと言っているよ」「シンガポール人の被害者は全部タイのプーケットで出ているらしいね。」「皆学校休みで出掛けているからね。」「シンガポールにあの津波が襲ってきたらどうなるかね?」ジェイソンは断定的に言った。「心配ない。こんな小さな国だから全員死亡だよ。あれこれ考える必要も家族の心配もない。」外は雨が本降りになっていた。 「ところで 佐藤さんこのコテージは大体週末は中国人で一杯なのですが、何故だか解りますか?麻雀をする為です。金曜日から日曜日までぶっ続けで麻雀するのです。気兼ねなく。うちのA君も常連らしいね、ねえA君?」A君「今日は麻雀が無いから、ブラックジャックしませんか?料理調達部隊は後1時間位かかりますから」「よしやろう、やろう」 たちまち博打場に変わってしまった。私がよくそのルールは知らないと言うと「1回だけ教えるから、ただし参加は自由」と言ってジェイソンは福久君に条件を決めさせる。「掛け金は50セント以上、21とワンペアーはダブル、いいですね?」 冷蔵庫から冷えたビールが出された。ビールは次から次と出て来た。あては4人でたった1袋のピーナッツ。
2週間禁酒していたせいかぐいぐい酔いが回ってきた。1時間後 福久君が1人で負けていた。この間2―3人メンバーが変わったが、ただ1人最初から続けているのは福久君だけで、負け金は50ドルを超えてしまった。「福さんは、大体健康管理が悪いから負けるんだよ。何キロある?その体、また太った?」ジェイソンが言うと「何言ってるの、同じ体形じゃない」「冗談じゃない、福さんのは異常だよ、医者にみせた?」「そう、コレステロールが多いと言って医者から薬を貰いました。大体なんにも食べずビールばっかりが1番悪いですよ」ジェイソン「実は僕も昨日健康診断したら、やはりコレステロールが異常だといわれたよ」「え!私の値は196と言われたけど、ジェイソンは幾つだった?」「270」「ひえ!それまともな話?」「そう」 2人はゲームそっちのけで薬の話を始め出した。私は尿意を感じトイレに入った。私も実は病み上がりだった。12月6日に前立腺を取る手術を受けていた。内視鏡での手術で表面には何の傷もないが、尿管から管を入れての手術で、その後遺症か尿意を感じると我慢が出来なくなり、まだ排尿後激痛が走っていた。 少し遡ると、11月25日に3ヶ月毎の検診に行った時、医者が言った「尿の検査から判断すると ある値が少し高いし尿の量もわずかしかない。前立腺肥大を放っておくとガンの可能性も高くなる。ここは摘出するか、ガン検査をする事を進めます」「ガンの検査ってどうするのですか?」「前立腺の組織をとって検査します」じゃあ摘出手術とあまりかわらなさそうだなあと思った。2回より1回で済ますか。「じゃあ摘出手術を受けます。」 大体あの前日ジェイソンに捕まってつい飲みすぎてしまったのがまずかったと思った。5時半頃から飲み始め家にたどり着いたのは早朝2時過ぎだった。中国式のカラオケクラブでひとが変わってしまったジェイソンは、馬鹿でかいドラ声でお経の様な節にしか聞こえない歌をがなり続けていた。福さんと3人でボトル2本を明けてもジェイソンは帰ろうとしない。帰ると2―3回言ってやっと彼は「福さん、佐藤さんを送って帰ってこい。佐藤さんは明日検診だから仕方が無いが、福さんは俺と最後まで付き合え。大丈夫ホテルを取っておくから」。そして翌朝病院に行くと完全な二日酔状態で、検診前の尿検査の尿が全く出てこない。幾ら水を飲んでも乾いた細胞に充てんしているのか、膀胱に降りてこなかった。 これでは異常な結果がでそうだなと覚悟していた。
医者に言った「実は夕べ飲みすぎたのですが」「関係ありません」 大晦日のバーベキューは4人位のスタッフが大量の食材を持ち込んでいた。それに福田さん夫妻が加わりかなりの大所帯になった。
炭火が出来あがり、まず下ごしらいされた鶏肉半身がぼこぼこと網に乗せられた。ジェイソンがその間に生きた蟹を乗せた。もがく蟹が徐々に赤くなっていく。それを一生懸命に押さえているジェイソンに私は言った。「ジェイソン 蟹はコレステロールのかたまりだぜ、君が食べると医者に怒られるよ」「よし解った。福さん今夜我々は蟹を食べないことにしよう」「何を言っているの!私は196 あんたは270、私は大丈夫食べます」「だめ、福さんが食べると私も食べたくなる。佐藤さんはOK。我々はワインで我慢しよう。」人種が雑多になると色々タブーが多く、結局出るのは鶏肉と海鮮だけになってしまう。その鶏と蟹を1匹づつ食べるとあっとう言う間に満腹になって、私もワイン仲間に入ってしまった。 一時止んでいた雨が又大粒で降り出して来た。子供と女性は部屋に逃げてしまい、私は寒さとビールでトイレ通いを繰り返す事になった。戻るのが面倒になってコテージの部屋で少し休むことにしてメダンのポンタスに電話してみた。しかし何回かけても今度は話中の信号だけがなり続けた。下からジェイソンが呼んだ。「佐藤さんワインが残ってよ!」 あきらめてドア―を開けて廊下に出ると、フィリピンのスタッフがワイフと抱擁して私に気付かない。寒いからではなさそうであった。下に戻ると皆傘をさして酒盛りをしていた。「蟹食べた?」「いや、まったく食べていない」ジェイソンと福久君はワインと炎で真赤な顔になっていた。                          
     おわり