写真は一部寄稿者のものではありません。

縄文住居
『縄文から学ぼう』 
『ページ 4 縄文の勾玉を追って〜前方後方墳』

寄稿 : Mr. Tom Ito
『ページ 1 縄文 三内丸山遺跡』 『ページ 2 縄文と翡翠と三種の神器』 『ページ 3 韓国 〜日本との繋がりを訪ねて』

==縄文の勾玉を追って〜前方後方墳==

縄文時代に生まれた風習が渡来文化と混じり合い、現代でも行われている風習がたくさんあります。 代表的な例は鏡餅と鳥居にかかっている〆縄です。縄文時代の人々は蛇をトーテムとして崇めており、蛇がとぐろを巻いた形が鏡餅になり、蛇が交尾し絡み合った形が〆縄になったと言われています。縄文時代に蛇がトーテムになった理由にはいろいろ学説があり、代表的なものとしては、蛇は脱皮し冬眠することから命の再生を連想し、人間が貯蔵している食物をネズミ等から守ってくれる為と言われております。 蛇をトーテムとしたのは縄文時代の人々だけではありません。マヤのククルカンは羽毛を持つ蛇で、メソアメリカ(メキシコと中央アメリカ)で最も広範囲に信仰されている神で、学問や文化の神でありトウモロコシの栽培を教えた農耕の神として扱われています。ギリシャ神話に出てくる名医アスクレピオスの持っている杖に巻きついた蛇、これは皆さんも知ってるように医療のシンボルマークとなっています。インド神話に出てくるナーガ。世界中で蛇をトーテムとして扱われました。

勾玉も縄文時代に生まれ、7世紀後半の天武・持統天皇時代に三種の神器の一つになりますが、勾玉は奈良時代に消えてしまいます。三種の神器は日本神話において、天孫降臨の時に、天照大神がニニギに授けられた鏡、勾玉、剣で、天皇が皇位の璽(しるし)として代々伝えられた宝物です。勾玉が消えると、日本人のほとんどはアクセサリー類を身に付けないようになりました。再びアクセサリーをつけるようになるのは大正時代になってからのようです。

縄文時代に生まれ勾玉を追い、韓国の百済、新羅、伽耶の遺跡を見て、4世紀に朝鮮半島、おそらく高句麗から渡来した人達が築いた群馬県の上毛野遺跡を今回見てきました。大和政権とは異なる勢力が関東に生まれておりました。関東王国と呼ぶ人もいますが、統一された国ではありませんが彼らは有力な関東豪族達です。大陸から馬を持ち込み、のちに関東武者の祖先となる人々です。ここでも勾玉は大きな役割をしていました。

縄文時代に勾玉が生まれ三種の神器と律令制が生まれ、勾玉が消えるまでの大まかな経緯を見てみましょう。

アクセサリーの大半が対称形である中で、非対称形の勾玉。勾玉は何故あのような形になったのか?

シベリアから移動した人々はマンモスを追い日本列島にやって来ました。温暖化により針葉樹からブナやナラが茂る広葉樹の森になり、大型動物はいなくなり、イノシシや鹿のような動物を狩猟する生活になりました。 イノシシの牙を身につける事でイノシシの精霊が自分を守ってくれる考えました。又、イノシシは多産な動物で女性が無事に多くの子供を出産することを願い、イノシシの牙を身に付けた。イノシシの土偶も多く出土しておりイノシシ土偶は安産祈願の土偶だったと思われます。 今でも、伊那谷の猟師の話として、イノシシの牙を腰につけていくとマムシに襲われないと言う伝承があります。

動物の牙は勾玉を細くし、先を尖らした形ですが、時代が過ぎ、動物の牙から翡翠などの宝石に材料を変え、丸みを帯びて、勾玉の形に変化し、安産と精霊からエネルギーを貰える呪術的な意味合いも兼ねたネックレスになりました。 勾玉の材料は粘土、木、瑪瑙、水晶、碧玉、翡翠、滑石、蝋石、などいろいろな材料で作られました。 勾玉の形は母体に宿った胎児の形を真似た物と言う意見もあります。土偶を作り、安産を願った縄文の人たちですから、胎児の形をまねたものをお守りとするのは自然な流れです。 縄文時代の人々は我々が想像する以上に文化的で、ダイナミックな人達でした。日本海はアジア大陸と日本列島が取り囲んだ大きな池のような存在で、日本と朝鮮半島及び樺太・大陸を自由に行き交っていました。縄文の人々は朝鮮半島にも住んでいました。

やがて大陸や朝鮮半島から異なる文化を持って人々が、水田稲作と青銅・鉄を持って、日本に移住してきます。渡来人です。彼らも、縄文人と呼ばれる人も我々の先祖です。 1万年以上にわたり殺し合いが無かった縄文の地に、欲しい物を得る為には殺し合いは当たり前とする文化を持った人が来ました。渡来人は西から縄文人を殺戮して東に移動してきますが、濃尾平野で移動は止まり、それから200年後からは渡来人と縄文人が共に生活するようになりました。 災難にあったのは人間だけではありせん。筆者は愛犬と狩猟するのが大好きで愛犬家ですので縄文時代の人々が犬を大事にしていたことが理解できます。縄文時代の人々も犬を狩猟の道具として使い、犬を可愛がっておりました。縄文遺跡から犬を丁重に埋葬した墓もたくさん出土しております。弥生時代になると犬は食べられてしまいます。犬の肉を切り取る時についた傷が出土される犬の骨についていまし。犬も大変な目に遭いました。

渡来人の日本への移住は紀元前5世紀頃から始まり8世紀初頭に高句麗が滅亡するまで続きます。 渡来人が持ち込んだ文化には明らかに殷の影響を受けた風習・文化に留まらず、ツングース系の風習・文化も混じり、ほぼ全ての大陸文化が混じっています。 大陸から持ち込まれた風習文化の2、3の例を挙げると、出雲地方の遺跡から卜骨(殷時代の甲骨占いに類似)が出土しています。埴輪の巫女の化粧、役割も殷の「媚」に近いものがある。

彼ら渡来人は縄文時代からの祭祀も取り入れて同化していった。 大陸では古来から翡翠を玉と呼び、魔除けの御守りとして珍重しています。当然のように翡翠の勾玉は祭祀と権力の表現する装飾品として使われます。 縄文時代の狩猟採集社会に比べ、稲作を基盤とした弥生時代は富と人々の間に格差を生み、富と権力を持った者は魔除けやパワーストーンとして勾玉を珍重し、勾玉の生産数は増えていきます。 勾玉を作るのは膨大な時間と労力がかかります。特に翡翠は硬度が6.5~7.0と大変硬く加工に時間がかかります。この硬い翡翠は硬玉と呼ばれ、アジアでは日本の糸魚川とミャンマーの北部でしか産出しません。ちなみに中国で産出される翡翠は軟玉と呼ばれる柔らかな別な鉱物です。 魏志倭人伝に邪馬台国の王・壱与(卑弥呼の次の女王)が、人間30人、真珠5000個、勾玉2個を魏の王に貢ぎ物として送っています。この例を見ても勾玉はとても高価なものであった事がわかります。 高価な勾玉は翡翠から作られましたが、いろいろな材料が使われました。糸魚川近辺は翡翠の勾玉、出雲地方は瑪瑙の勾玉、関東では水晶の勾玉がよく作られました。

大阪 池上曽根遺跡にある神殿の柱の下から糸魚川産の翡翠で作った勾玉が出土しています。勾玉が埋められていた柱だけが腐らずに残ったと言われております。 奈良県の唐古遺跡から不老不死の薬が取れると信じられていた褐鉄鉱(鉄の酸化鉱物~天然の錆び)に翡翠の勾玉が入った物が出土しました。 勾玉は身に付ける魔除けやパワーストーンとしてのみならず、広範囲にわたり活用されていました。勾玉には不老長寿につながる神秘性をも感じていた可能性もあると思います。

渡来人は西日本を中心として小さな都市国家のようなものを形成していきます。卑弥呼が出てくる魏志倭人伝には、30の国が戦争に明け暮れたとあります。この当時、日本では鉄の生産はしておらず、全部朝鮮半島から輸入しておりました。 鉄をより多く手に入れる事が覇権争いに勝つ為に最も重要な事でした。鉄の供給先は朝鮮半島の南端にあった伽耶でした。伽耶は早くから鉄を溶かすために空気を上手に送るフイゴのノーハウを確立し、粉砕した貝を鉄に入れ鉄の硬さと剛性を高める技術を持っていました。金管伽耶国を作った最初の王は金首露王で、各地に鉄を供給しており、王妃はインドのサータヴァーハナ朝の王女でした。金首露は歴史に登場する最初の武器商人です。

ここで登場するのが勾玉です。朝鮮半島から鉄など倭国ではまだ生産出来ない材料や商品を得るために勾玉を交易品として用いました。朝鮮半島の遺跡から出土する勾玉の数から算出すると、150,000個以上の勾玉が交易のために朝鮮半島に送らています。勾玉以外の装飾品も作られていますが、ここでは勾玉だけに限定し話を進めたいと思います。 この時代の日本の遺跡からはあまり翡翠勾玉が出土していません。大半が朝鮮半島との交易に使われました。

筆者は勾玉を追いかけ百済、新羅、伽耶の遺跡を調査してきました。一言で表現するとすれば、勾玉だらけです。墓跡から出土する勾玉の数は多く、ネックレスは当然ですが、冠、ベルト、腕輪にも多くの勾玉が使われていた。 圧巻は新羅時代に作られた天馬塚金冠は59個の勾玉がつけられています。 勾玉形の装飾がぶら下げられたデザインは樹木を崇拝する騎馬民族の間で広く流行ったもので、樹木の果実と考られました。これは生命の誕生と子孫の繁栄を意味するそうです。縄文時代の勾玉に対する意識と類似していますね。勾玉の形が胎児を連想させるためでしょうか?

渡来人は朝鮮半島に近い九州や出雲地方に移住し、徐々に近畿地方移動してきました。2世紀の墳丘墓を見ると、明らかに出雲地方と吉備(岡山)地方では文化の異なる人々が住んでいました。出雲地方中心として日本海側には楯築遺跡を代表として四隅突出墳丘墓に対し、吉備は円墳に両サイドに大きな突起を持った墳丘墓です。一説によりますと出雲地方は高句麗から来た人々が設立した文化圏で、吉備と大和は伽耶から来た人々が設立した文化圏と言われています。やがて大和と吉備が手を組み出雲を制圧します。 4世紀に入り高句麗から人々が新潟地方に入り、やがって群馬に移住し大きな勢力を持ちます。馬をはじめとして北方遊牧民族の文化が持ち込まれました。前記した群馬県の上毛野遺跡は彼らが築いた王国の遺跡の一部です。

これらの動きに勾玉も大きな影響を受けます。大きな権力を持った大和政権は富山新潟地方からの翡翠の勾玉生産と出雲地方の瑪瑙・水晶の勾玉生産を管理するようになります。後の時代ですが、蘇我氏も勾玉工房を持って大きな富を築きました。 大和政権の支配が及ばなかった関東では山梨から産出する水晶を埼玉県の松山市にあった工房で水晶や瑪瑙の勾玉を作っていました。 勾玉をはじめとする装飾品が鉄を手に入れる為の大事な交易品でした。

6世紀後半に仏教が入ってきます。日本古来の神道・祭祀の代表であった物部氏と仏教派の蘇我氏の争いが始まります。物部氏が負け仏教が主流になります。インドに生まれアフガニスタン、中国、百済を経由して来た仏教は発展と共に色々な文化や考えを吸収し、人々に受け入れやすい宗教になっていました。特にアフガニスタン(ガンダーラ)でヘレニズム文化の影響を受け、民衆に受け入れやすい宗教に変化しました。ギリシャのヘルメスが毘沙門になり、釈迦が禁じていた仏像生まれ、出家と厳しい修行に代わり、善行とお布施で悟りが開ける思想が生まれました。

渡来人の人たちの宗教観は殷の宗教観に似ていました。殷は新たに帰属した国や部族に王族直属の祭祀官を送り込み、その土地の神々を自国の祭祀に吸収し、祭られる神も増やしました。 渡来人は縄文の神 アラハバキ神を排除しないで、客人神(まろうどがみ)として祭りました。もともと居た神が客人なのは本末転倒ですが、大宮の氷川神社、諏訪大社、いろいろなところで客人神が生まれました。

仏教が入ってきた初期の段階では仏を蕃神(ばんしん)と呼び、日本でそれまで信仰されていた神とは区別した外国からの神として受け入れました。シンクレティズム(異なる宗教の結合)です。 日本古来の宗教は現在我々が意味する宗教とはかけ離れた存在であった。縄文の宗教はアイヌの人々が言う「カムイ〜あらゆるものにカムイ=神が宿る」に近い存在でした。別世界のような縄文カムイ信仰を仏教と結びつけ民衆が分かりやすい宗教に変わっていきました。 代表的な例は勾玉です。588年に飛鳥寺が建立されます。飛鳥寺の原型となったのは百済の王興寺で、飛鳥寺にも王興寺にも仏舎利と一緒に勾玉が塔の基礎部に奉納されていました。仏舎利をスツーパに、中国・朝鮮半島・日本では五重塔に安置しますが、勾玉を仏舎利と一緒に安置するのは朝鮮半島と日本だけだと思います。邪気を防ぎパワーを貰える勾玉を仏陀に奉納する事は当然の事かもしれません。

663年に白村江の戦いで国家として統一された新羅・唐連合に日本からは豪族を寄せ集めた集団は惨敗し、天智天皇は律令制を推し進めました。

やがて天武天皇と持統天皇(在位673〜697年)になり勾玉は三種の神器の一つになります。日本書紀によると、この勾玉は天照大神が孫のニニギが降臨する時に与えた勾玉です。 仏教が支配階級に広がり始め、律令制も確立し勾玉は消えてしまいました。三種の神器の一つとして勾玉があり、豪族たちが勾玉を着けなくなる事は天皇と豪族の差別化で天皇家には好都合な事になります。 天照大神の子孫が天皇家であることを豪族や民衆に理解させる明確な方法は、勾玉を天皇だけが皇位継承に用いる事です。古事記、日本書記に大事な場面で必ず勾玉が出てきます。ニギニギの天孫降臨、須佐之男命が国を奪いに来ると勘違いした天照大神は沢山の勾玉を身につけます。天照大神を象徴するのは鏡、劔と勾玉であり、誰も彼も勾玉を権威の象徴として使うことを止めさせる必要がありました。

仏教の導入は革命でした。文字が本格的に使われ、建築土木技術を始めとするあらゆる技術がもたらした歴史的な出来事でした。又、日本を天皇の元に統一された律令国家になさざるをえない国際環境で、交易を担った勾玉は権威の象徴から消えていきました。

勾玉を追い韓国の遺跡を巡り、今回 上野毛遺跡を見学しました。古墳時代の勾玉と関東地域について考察します。 上野毛遺跡は5世紀末から6世紀中頃の2度の榛名山噴火による降灰に覆われたことにより当時のままの状態で出土している貴重な遺跡です。 縄文時代を通して人口密集地であった関東地区の縄文末期の人口は1万でしたが弥生時代には10万まで増えました。従来からの縄文人と渡来系の弥生人が混ざり合い、農耕社会が営まれ、縄文の集落があった場所が弥生と古墳時代にも集合になっており、西日本にあった様な渡来系の人による縄文人の殺戮がなく、平和に渡来系の人と縄文人が融合していました。縄文晩期に気候寒冷化などの影響から集合が小規模分散化していき勾玉も作らなくなりました。

魏志倭人伝には他の動物の記述がありますが馬は無く、4世紀に北方系の渡来人、おそらく高句麗、が馬を連れて来たと考えられる。関東平野の北部は馬の放牧に適した土地で馬の産地になります。 関東地区でも大きな権力を持った人々と組織が生まれ社会構造が変わります。先進技術と馬を初めとする高度な戦闘力を持って朝鮮半島より渡来してきた人々が豪族社会を形成します。関東地域には38,000基の前方後円墳が作られました。関西奈良地区では39,900基の前方後円墳が作られ、それに匹敵する量です。大手ゼネコンの計算によりますと、5世紀前半に作られました長さ425メートルの応神天皇陵を作るのに大型ダンプカー200,000台以上の土を運搬する必要があるとの計算があります。関東の前方後円墳はそれほど大きなものではありませんが、膨大な労力が必要で、その労力集める力、経済力が豪族にはあったと言うことになります。 この経済力を支えていた商品の1つが勾玉です。山梨でとれた水晶を勾玉に加工する工房が埼玉県の東松山市にありました。

勾玉が生まれてから時代と共に色々な役割を担ってきました。縄文時代の勾玉は個人が細々と制作していましたが、弥生から古墳時代になり工房での専門集団による制作に変わりました。鉄や日本では手に入らない物を得る交易品として大量に作る必要があったからです。 鉄も日本で生産されるようになり、仏教の導入と共に文字を初めとし科学技術が日本に根付き、やがて交易商品としての勾玉、権力の象徴としての勾玉も消えていきます。